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創業95年の信用とネット通販19年の実績 さのや

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投稿日:2010年12月04日

日本橋佐野屋 発展の秘密(1)  【さのや歴史講座 7】

 

 15歳のとき、大橋家から菊池家へ養子に入った淡雅は医者になることを断念して、義父介介(かいすけ)の下で商売を学ぶことになります。当時の菊池家=佐野屋は古着の売買を主な業としていましたので、近郷近国の質屋などへ行商に出るようになります。旅中の淡雅は、常に書物を持参して、歩行しながら読書するほど、勉学に熱心だったそうです。

 

 また、江戸や東海道といった遠方へ出向く時は、駅馬を雇って旅することが多かったのですが、馬上でも書を読みながら、そのうち疲れて馬の上で居眠りをして馬丁に注意されることもしばしばだったようで、落馬して怪我でもしてはと、周りをはらはらさせたということです。介介の弟で、後に本家を継ぐことになる栄親は、これを聞いて、「いささかの費用を惜しんで怪我をするのは不孝であるから、駕籠を使うように」と命じたのですが、淡雅はこれから一家を興そうという身が駕籠などを使うのはもったいないことだとして、密かに馬に乗ることも多かったということです。

 

 父の介介は佐野屋10代目で、6代目から続く治右衛門の名を継いでいました。本来であれば、一人娘(民子)の養子に迎えた淡雅を11代目にして本家を継がせるのが筋であったのですが、文化11年(1814)正月、突然大きな決断をします。

 

 本家を介介の実弟である栄親に継がせるとともに、娘婿の淡雅には資金を与えて江戸に出店させるという構想でした。この年の5月に介介は他界してしまったため、この構想の成否を見届けることはできませんでしたが、婿の淡雅に対して並々ならぬ才能を見出し、次世代の佐野屋の新たな発展を淡雅に託して世を去ったのでした。これが見事に的中して、佐野屋は江戸において、大きな発展を遂げることになります。

 

 江戸日本橋では、以前から親交のあった伊勢商人松坂屋藤八の裏手に間借りをして佐野屋孝兵衛の名乗りを上げ、宇都宮本家の佐治(野屋衛門)に対する分家、佐孝(野屋兵衛)と呼ばれました。

 

 開業当初は、間口5間(9m)奥行2間半(4.5m)と言いますから、40.5平米=約12坪ほどの、今で言えば平均的な1LDKの平面積くらいの土地で、しかも借家でした。

開業スタッフは淡雅と妻の民子、雇い人として、常陸国吉川村の人平山幸助と、常陸国川嶋村の人小林好兵衛、このほか童子と僕隷の6人という江戸日本橋商人としては小所帯でした。そして、開業から3年後の文化14(1817)には、本拠地である日本橋元濱町に移転します。12坪程度の小さな店が、この時には間口2間半(4.5m)、奥行10(18m)81平米=24.5坪となり、更に晩年になると、間口10間(18m)、奥行22(39.6m)713平米=216坪の敷地に、家族・従僕100名余が生活し商売する大店になっていました。当時の町家(商家)は、表は蔵造りの店先になっていて、その奥の敷地内には、家族から従業員までが寝起きする生活の場でもあったのです。

 

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かつての運河を彷彿させる亀島川(中央区新川)

 

 

 
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日本道路原標のある日本橋、いなせな出初風景

 

 佐孝の本拠地の住所は、現在の中央区日本橋富沢町10-10付近であったろうと推定されます。明治31年の「日本商工営業録」に元濱町の地番と織物問屋の表が残されています。

 

地番

業種

屋号

氏名

2

木綿卸

 

野中鶴吉

3

太物卸

叶 屋

梶 周吉

4

綿ネル卸

 

塚本直次郎

5

綿ネル卸

加賀屋

山本彌兵衛

6

呉服太物卸

小野里商店

東京支社

6

呉服太物卸

奈良屋

青木堪兵衛

6

太物卸

 

石井忠次郎

7

呉服木綿卸

内田屋

内田庄兵衛

8

呉服卸

伊勢屋

鈴木啓八

8

呉服太物卸

佐野屋

菊池長四郎

9

呉服木綿卸

三河屋

外山彌助

10

呉服木綿卸

松坂屋

奥田藤八

11

太物帯地卸

佐野屋

内田金蔵

12

太物卸

中 屋

新井半兵衛

12

洋織物卸

廣 屋

下村政吉

12

太物卸

伊勢屋

鈴木定之助

12

呉服木綿卸

 

柴田傳次

明治31年「日本商工営業録」より 〇は納税額40,000円以上の大店 (10番地の松坂屋奥田藤八が、開業当時の家主であったのではないだろうか)

 

 上の表から、佐野屋の地番が元濱町8番地であったことが分かります。また、納税額4万円以上とありますから、現在のレートに換算しておよそ4,000万円以上になります。実際には売上税額にして20万円以上あったようですから、ざっと2億円の納税、これは、明治31年のことです。

この資料から、当時の古地図と現在の地図を比較したものが、以下の図になります。 

 

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 店の前は浜町川入堀という運河になっていました。運河には千鳥橋と汐見橋という名前も見えます。真岡産の晒木綿は栃木県の思川や巴波川(うずまがわ)から、利根川の水路を通り、大川=隅田川を経て、この運河を通って佐孝の店に運ばれてきます。

 富沢町から堀留町のあたりは、今でも繊維関係の商社が多く、綿商会館や、西川産業(もと近江の蚊帳商人)のビルが立ち並んでいます。佐孝のあったと推定される場所は現在、「日本橋インテリジェントフラッツ」という貸ビルが建っています。

  

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 当時の運河は現在埋め立てられて、その上は建物や狭い路地、公園に姿を変えています。それでも良く観察すると、10m幅くらいで町並みを横切る不自然な細長い路地が続いているのが見てとれます。更に先を辿って行くと、久松警察署を過ぎたあたりから、細長く伸びる公園(浜町緑道)になっており、その先首都高速道路の浜町出入口に続いて隅田川へとつながっていたのが分かります。

 

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細長い奇妙な路地の一角、実はこれが運河の上に建つ家並み、土地台帳はどうなっている?(富沢町2丁目)

 

 ブラ・タモリ風の新日本紀行で、このあたりの町並みを歩けば、元は大名のプライベートな守り神であった水天宮や、宝くじの元祖椙森(すぎもり)稲荷、小伝馬町の獄舎跡には吉田松陰終焉の地、江戸城二の丸から移された本石町の時の鐘など、見どころはたくさんあります。そしてちょっと歩けば、東京のウォーターフロント、隅田川から眺める佃島あたりの高層マンション群、東京スカイツリー。見方を変えて歩けば、かつての江戸の町並みを思い描くこともできそうです。

  

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文化11年(1814)にこの日本橋に開業し、江戸進出を成功させた佐野屋は、このあと4代続きます。そして、関東大震災によって壊滅的打撃を受け、4代目菊池長四郎(惺堂)が閉店を宣言する昭和29月まで、116年間にわたって栄えることになります。京都や近江、伊勢商人が支配する日本橋という特殊な環境の中で、栃木県から進出した佐野屋がどうしてこのような繁盛を遂げることができたのか。その秘密については、次回に譲ることにします。

 

◆東京都豊島区質屋さのやのホームページはこちら 

 

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