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投稿日:2011年04月02日

淡雅の足跡を辿って【さのや歴史講座 10】

江戸に進出して、佐野屋を一代にして豪商に築き上げた菊池長四郎(寛政元年~嘉永6年 号淡雅)については、様々な史料が残されています。

     掛け軸などの墨蹟 ② 商売についての著作 ③ 墓所 ④ 石碑 等々、

この中でも、活動の足跡を 墓所 ④ 石碑 に見ることができます。

 

谷中天王子墓苑(東京都台東区谷中7-14-8)

淡雅の墓所は2ヶ所に存在します。東京谷中の天王寺と、宇都宮寺町(現:仲町)生福寺です。天王寺墓苑は淡雅以下の大橋家代々の墓所で、淡雅の墓を中心に、儒学者大橋訥庵とその妻巻子(淡雅長女)の墓をはじめ一族の墓石が広い敷地に整然と並んでいます。

  

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谷中天王寺墓所にある大橋家墓所

 

淡雅の最期について、妻の民子が日記に記しています。

 

嘉永6年(1853
59日 昼八ッ半過ぎ俄に発熱下痢是れ有り
10
日 昼頃漸く汗出、熱さめる
13
日  下痢いまだ止ず
14
日  いよいよ大病になる
15
日  多喜様へ玄六願に出夜御出 もっての外大病のよし御申に付宇都宮へ飛脚明朝七ッに岩蔵立たせ
16
日  同様なり
17
日  朝六ッ半頃御死去なり
21
日  朝五ッ出棺
23
日  初七日にて墓参致す」

 

享年65歳でした。記録には「葬谷中天王寺」とあります。

 

宇都宮生福寺(栃木県宇都宮市仲町2-17)

宇都宮生福寺には、菊池本家の墓所があります。ここは4代目から14代目までの当主と、その家族の大きな墓所になっていますが、これとは別の敷地に淡雅一家(菊池東家)の墓所があります。

 

 

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①淡雅知良、民子の墓 ②教中の墓 ③武文(教中の子)の墓 ④菊池八千代 ⑤勤皇の志士の高札

 

淡雅の妻民子の墓は、谷中天王寺にはなく、宇都宮生福寺に淡雅と共に埋葬されています。民子が亡くなった時に、天王寺から淡雅を分骨したものと考えられます。同じように淡雅の長男=菊池教中の墓も谷中天龍院に埋葬されていたものを、こちらに分骨しています。

宇都宮生福寺には、菊池家墓地のほか、暖簾分けして別家となった吉田丹兵衛家の墓所があります。丹兵衛の墓石には淡雅の文章を教中が墨書した墓誌が刻まれています。

 

淡雅翁頌徳碑(栃木県小山市粟宮1006付近)

大橋淡雅の生家は小山市粟宮にありました。国道4号線を間々田から神鳥谷に向かう途中に、大橋訥庵旧居跡の高札が見えます。そのはす向かいに粟宮上公民館があり、この横手に大橋一族の墓と「東海院淡雅温卿居士頌徳碑」があります。平成27月吉日と設立年月が刻んであるので、淡雅の生誕200年を機に、比較的最近になって大橋家の縁者によって作られたものです。

 

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東海院淡雅温卿居士頌徳碑 碑文 
大橋淡雅は天明八年粟宮の医師英斎の子に生まる。諱は知良字は温卿淡雅と号す。宇都 宮の商賈菊池家の養子となり文化十一年江戸に出で日本橋にて木綿呉服問屋を営み佐野屋長四郎と称す。家業に励み江戸屈指の豪商となるも勤倹己を持し義に篤く貧を救うに意を用い私財を投じて粟宮の助郷役を永代免除せしむ。天保の大飢饉に際しては餓民千戸を援く。又荒廃せし奥日光川俣温泉の復興に尽力す。幼にして学を好み長じては文人墨客と交り自らも保福秘訣富貴自在等を著す。小山市興法寺所蔵県指定文化財佛画七幅は祖先供養のため淡雅寄納せしものなり。嘉永六年病没す。享年六十六歳 その死を悼み会葬せしもの六千人を数う。 淡雅に一男二女あり 女婿大橋訥庵は江戸に思誠塾を開き義弟菊池教中と共に尊王攘夷に奔走し幕末勤王五傑の一人と讃えらる。淡雅生誕二百年に当りその後裔故大橋良矩 淡雅の徳を頌えんがため碑を建てんと発願せしも志なかばにて他界す。ここにその兄故英夫の長男知良良矩の遺志をつぎ英夫良矩の妹川越市藤田悦子関城町林光野寒川菅沼茂子の協力を得て之を建立す。」 

 

泉岳寺南窓翁碑(東京都港区高輪2-11-1)

高輪泉岳寺といえば播州赤穂藩主浅野家の菩提寺で、赤穂四十七志の墓があまりにも有名です。この赤穂浪士の討ち入り事件は当時様々な評価がありました。今でこそ仇討ちの美談として、映画やドラマで何度も放映されていますが、当時はこの事件の扱いについて、当初は厳罰に処すべきという幕府の意見が強くありました。考えてみれば、浅野内匠頭が江戸城中松の廊下で吉良上野介に恨みを持って斬りつけ、殺害に失敗して幕府の刑を受けたのですから、仇討ちで吉良を襲うというのは筋違いです。これは幕府の判断を不可とする政府への反逆といえなくもありません。

これを当時の儒学者が忠孝篤い美談の例として称賛したことで、世間にもあっぱれな所業として広まります。これを黙視できなかった幕府は赤穂浪士に対して、本来であれば斬首のところ、刑を減じ、武士としての体面を汚さぬよう切腹を命ずることになったのです。

南窓翁(柴山常晴れ)という講釈師が赤穂義士伝を講談にしたことで民衆にも広く知られるようになりました。この南窓翁を讃える石碑が泉岳寺の一角に建てられています。南窓翁の門人柴田南玉が文章を作り、淡雅が墨書しています。

 

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南窓翁碑
先生諱常晴柴山氏号南窓安房州之人 住於江戸以講軍記為業伝聞強識而雄
弁動衆声名藉甚者已四十余年矣尤好 講赤穂盟士之伝蓋為人臣之準則
欠有忠者必有孝先生常説此両議以示 諸人凛凛意気傍若無人自称海内之一人也

弘化三年丙午四月十五日以病終 于家高寿七十有三門人南玉柴田翼撰
嘉永元年歳次戊申四月建 大橋知良書

 

赤穂義士については、大橋訥庵の実父である清水赤城(儒者・兵学砲術師)が「赤穂義士人之鑑(涙襟集)」という書物で義士を讃え、また、訥庵の実子である大橋義が「赤穂義人纂書由来書」を記しています。

儒学に言う「忠孝」が、赤穂義士によって実践され、幕府政治への反逆であったにもかかわらず、世間に受け入れられたことは、この先幕末を迎える思想的な導線になったとも言えるでしょう。大橋訥庵、菊池教中が淡雅の没後に、尊王攘夷を唱えて坂下門事件を企図することになります。

 

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