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投稿日:2011年04月20日

佐原別家の消息 佐野屋司店(2)【さのや歴史講座 11】

佐原で見つけた意外なものとは、

     淡雅(佐孝店初代 佐野屋長四郎)の位牌

     孝古(佐野屋本家10 佐野屋治右衛門)の墓

でした。

 

画像が位牌やら墓石やらで、ちょっと不気味なものになってしまいますが。

 

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佐原の橋本宅で掛け軸を前にお話を聞いていると、橋本さんが奥様に「あれを持ってきてみなさい。」と言って、奥様が奥から持ってきたのが時代を感じさせる位牌でした。

 そこに記されている戒名は「東海院淡雅温卿居士」とあります。他でもない、江戸に進出した佐孝店の初代、佐野屋孝兵衛(大橋知良、菊池長四郎)の戒名に他なりません。

 なぜ佐原の司店に淡雅の位牌が安置されているのでしょう? 

橋本さんのお話では、坂下門事件があったため、幕府の追及を逃れるため、佐原へ疎開したとの説でした。事件の黒幕とされる、大橋訥庵の位牌もあるということでした。

橋本文蔵と淡雅とは10歳ほど文蔵の方が年長です。文蔵の没年が未確認ですが、淡雅は65歳で亡くなっています。この9年後に坂下門事件が勃発しています。位牌と事件との関係は、ミステリーです。

  

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上は、橋本家の墓所(香取市、長妙山浄国寺)にあった古い墓石です。「賢徳院深龍智底居士」これはかなり特徴のある戒名です。一度目にすれば記憶に残る戒名で、その場では思い出すことができず、家に帰ってから調べたところ、予想通り佐野屋本家10代目の孝古菊池治右衛門のものと分かりました。

 橋本文蔵を育て、佐原へ出店させたのが孝古です。文化7年(181010月のことでした。孝古はその4年後の文化11年戌5月に亡くなっています。江戸へ出店した淡雅や、宇都宮に分家として出店した吉田丹兵衛などと共に、橋本文蔵もこの死を大変に悼み、悲しみに暮れたことだろうと推察できます。

 文蔵は、おそらく遺骨を頂いて自分の住む土地に分骨埋葬したものと思われます。

 

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上は、前回紹介した橋本家に伝わる掛け軸の賛をそのまま写したものです。

 

また、孝古が文蔵を良く教導し愛したことを示す逸話が、「淡雅雑著」(淡雅行実)の中にあります。

 

下総の佐原に開店したる文蔵は、16歳の時より君に仕えたる者なり。かつて上方筋へ仕入れ物に遣はされし時、尾州名古屋にて、書付を書かねばならぬ事ありしに、文蔵元来無筆なりしがば、殊の外に赤面して、慚汗(ざんかん=恥じて汗の出ること)腋をうるおしたり。帰郷の後、その事を君に語り、文字の書けぬほど、男子の恥辱はあるまじと言いければ、君それを聞きたまふて、そもそも汝は心の小さき男かな、古より名将と云われし者にも、無筆無算の人甚だ多し。自己は無筆無算にても、その芸に達せる者を抱へて従へ行かば、絶て患とするには足らず。総て大将たらんと欲する者は、気を大きく見を高く持て、瑣細の事には目を属せず、恥辱とも思はぬ者ぞと言(のたま)ひければ、文蔵もその気象の高きに感服して、それよりはその筋に心を潜めたりとぞ。

また文蔵、風と遊妓に馴染みて、夜具を作りて与えざればならぬ事出来たりしが、元来潔白の性質にて、金銀を私するやうの事なき男なれば、甚だ昏惑して、如何ともせんすべなし、因て君の前に出でて、明にその始末を訴へ、己が罪を謝しければ、君熟く聞てそは是非もなき事ゆえ、何程となりとも金子持参すべし。汝が過は賞すべきことに非ざれども、その蔽ひ隠さざる心に愛でて遣すなり。何事も右の如くに明白なれば、一個の男子となることあらんと、事もなげに言ひしとぞ。その気象の豪邁快豁にあられんこと想ふべし。

文蔵と丹兵衛の両人は、君の識鑒(鑑識)にて開店を命ぜられ、各々その業を隆盛にせし者なり。詳なることは、先孝淡雅君の書かれたる、二人の墓表に就て見るべし。」

 

(文蔵の墓表とはおそらく上に掲載した掛け軸の賛に当たるのではないだろうか。また、丹兵衛の墓表は宇都宮生福寺の丹兵衛墓に刻まれている。)

 

佐原文蔵家=佐野屋司店の歴史については、橋本さんの弟さんが研究しているとお聞きしました。そのうち是非その成果を拝見したく思います。

 

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上の画像は、佐原の近くにある香取大神宮社。遠方より多くの参拝者を集める有名な神社です。この末は亀戸を始めとして東北関東を中心として全国に広がりを見せています。

 

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