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投稿日:2011年01月12日

一枚の写真 関東大震災  【さのや歴史講座 番外編3】

 

大正12年9月1日午前11時58分32秒、マグニチュード7.8の大地震が関東地方を襲いました。関東大震災、死者・行方不明者が14万人を越えたそうです。

 

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上の地図は大正時代に作成された地図と現在の地図を重ねて表示したものです。被服廠跡を背にして厩橋方面を撮影すると、ちょうど佐野屋が間に入る位置になります。当時のこの一角にはライオン石鹸の本社や、中島工場(歯車などを作る鉄工所)鈴木工場(金属印刷工場)があったはずですが、すべて倒壊あるいは焼失してしまっています。(現在はライオンの本社ビルが、かつての同じ場所に新築されています。)

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本所で佐野屋の六つ蔵と呼ばれたスケッチが残されています。2階~3階建ての蔵の形状、屋根の形、焼け野原に複数(2~3棟に見える)が並んで建っている様子など、佐野屋の蔵の残骸ではないかと推定できるのです。

 

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上の写真は明治34年9月15日に本所外手町の敷地内で撮影された佐野屋の主な人たち11人の集合写真です。当主の2代目永之助(後列右端)は撮影の5年後(震災前の明治39年)に亡くなっているので、震災の時には生きていませんでした、この他で震災後の消息が明らかなのは、震災の前年11月に大塚へ分家した久吉(後列右から3人目)・艶子(後列左から2人目)夫妻、震災後に久吉たちの捜索によって偶然救出された艶子の実母満壽子(後列左端)の3人だけです。永之助、くら子、満壽子、久吉、艶子ら5人の墓所は谷中天龍院にあります。しかし、永之助の長男正太郎をはじめ、残りの人々については、菊池家の墓地に埋葬されてはおらず、その所在が分かりません。

 

震災直後、逃げ惑う人々は抜刀した警官隊の指図によって、横綱町の被服廠跡地へ誘導・避難します。地図でもわかるように、外手町からは数丁のすぐ近くです。大変多くの避難民と、家から持ち出した布団やらの荷物でごった返した広大な被服廠跡地に火の粉が降りかかります。火の粉は密集した人々の衣服や布団などの荷物に燃え移り、あたり一帯が火の海に包まれてしまいます。大火災によって発生した旋風が人々や荷物を空に舞い上げ、再び地面に叩きつけます。東京で死亡者・不明者がおよそ10万人、そのうちの3万人から4万人がこの被服廠跡で亡くなったそうです。佐野屋の家族や従業員もこの被服廠跡に避難していたはずです。

 

現佐野屋の直接の親家にあたる本所外手町の店は倒壊焼失し、人的にも壊滅してしまいました。そして、さらにその親家である日本橋佐孝店も震災の火災で店が焼失し、立ち直れないほどの大損害に見舞われ、江戸文化年間から4代続いた江戸日本橋の佐野屋はついに閉店のやむなきに至ります。

 

初代の残した書籍『淡雅雑著』を復刻するにあたって書かれた佐孝店4代目菊池長四郎(晋二)の跋文には閉店のやむなきに至った慙愧の思いが綴られています。

 

 もし我が子孫が此の書を読んで、発憤興起し家道を再興するものあらば、余の面目始めて一洗するを得ん。是れ余の希う処なり復た何をか言わん。

 

久吉と艶子が大震災の前年にこの地大塚で佐野屋を開業して3代、2010年11月で88年を迎えました。遠くは江戸初期から400年余の歴史を受け継いで、あるいは大いに栄え、あるいは細々と消長しながら、関東大震災で灰燼に帰し、東京大空襲で焼け出され、奇跡的に生き残った佐野屋は、大塚の地でようやく復活したのです。

 

 

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一枚の写真は絶望を象徴しているように見えます、人間も住まいも品物も、すべてを焼き尽くして、希望のカケラもない瓦礫の世界。苦しんで死んで行った先人の無念の思いや、すべてを失った悲しみの声が聞こえてきます。現在の佐野屋、その見えない土台はこうした先人たちに支えられてあることを、時々は思い出して、決しておごらず、感謝の気持ちを持って毎日仕事に励んで行きたいと思っています。

最後の画像は、厩橋から見た東京スカイツリーです。関東大震災と東京大空襲で2度にわたって焼き尽くされ何万人という多くの人々が亡くなった絶望の時間とは対照的な明るい繁栄を象徴するような画像です。

◆東京都豊島区質屋さのやのホームページはこちら

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