このページではJavaScriptを使用しています。

創業95年の信用とネット通販19年の実績 さのや

ブログ記事詳細

投稿日:2011年07月02日

淡雅から教中へ 【さのや歴史講座 19】

 

20110702hon1.jpg

 

    眼鏡をかけた菊池教中


 文化11年(1811)江戸日本橋に店を開いた佐野屋は、淡雅の一代にして豪商にまで成長しました。絶頂期を迎えた嘉永6年(1853)、淡雅は病没し、その子教中へ家督が受継がれます。このとき教中は26歳、店を引き継ぐとすぐに大きな逆境に遭遇します。
 このとき、教中は大胆な決断を迫られることになります。商売の大転換、そして、幕末へと世の中が騒然として行く中で、尊王攘夷の思想へ自らのめり込んで行くようになるのです。明治維新を迎える前の文久年間に活動した教中周辺に何が起こったか、そして、その行動の意義と時代に与えた影響について考えて行こうと思います。

 淡雅の没したのが嘉永65月、その翌月には米国のペリーが率いる黒船の浦賀来航、6月にはその艦隊が品川沖に威力進出して空砲を放つなど世情騒然となり、米国との戦争で江戸は砲火に包まれるなどの噂も広がって、江戸庶民の間では恐怖心から江戸を捨てて退去する人々も多かったそうです。
 更に、翌年の安政210月には安政江戸大地震が江戸を襲います。この地震により日本橋一帯も火災に見舞われ、大きな打撃となりました。

 安政江戸地震はマグニチュード6.9、最大震度が6と推定されますが、震源が荒川河口付近の直下型地震だったために、倒壊家屋も多く甚大な被害となったそうです。その前年の安政11223日にはM8.4、震度7の東海大地震が、32時間後の1224日にはM8.48.5、震度6の南海地震が相次いで発生しています。

この3つの地震を安政三大地震と呼んでいますが、この2年の内に伊賀・上野地震、飛騨地震、飛越地震などが連動して発生しています。

今年3月に発生した東日本大震災のメカニズムと似た現象で、東京の直下型地震が危ぶまれます。 
 

20110702hon2.jpg

 

安政210月、江戸大地震後の時点で、佐野屋の損害は3370両に及び、教中はついに経営の転換を図らざるを得なくなります。ちなみに3万両というと(1両=6万円の計算で)18億円に相当します。パチンコでも千両箱が積まれている光景を見かけますが、ヒノキの千両箱に小判を詰めると重さが15kgくらいになります。3万両となると、この箱が30個ですから重さにして450kg、ちょっと想像できないくらいですね。 このような甚大な被害状況でした。
 安政1年の棚卸では、「第一、昨年東海院(淡雅)様御死去、その後異国船渡来、世上不穏、商内も皆々存じの通り、開店以来これなき不勘定」(菊池小次郎家文書)となりました。

 翌安政2年には大地震があり、その10月(旧暦)に佐野屋店内の改革議定を行うのやむなきに至ります。

嘉永6年以来、「3か年の間、天災引き続き、宇都宮宅類焼、先君(淡雅)ご死去、異船騒擾、ご領主御用金、御公儀御用金、東海道筋大地震、ご領主無利足年賦、地面類焼、白子船破船、江戸店並びに堺町類焼、此の度大地震」(菊池小次郎家文書)の11カ条を上げて、教中は経営方針を全面的に変更する決意を固めます。

20110702hon3.jpg

 

嘉永3年(1850)旧暦4月 教中書(22歳)
  教中の決意とは、江戸から資本を引き揚げ、新田開発経営を中心とする領地経営に乗り出すという計画です。教中から大橋訥庵に宛てた書状に次のように所信を述べています。


「末世にはいかなる苛政に逢い申すべきもはかりがたく、公儀にて戦争相起こり候よう相成り候えば、

町家などは甚だしく収斂に逢い候儀必定にて、もっとも公儀の用金等は防ぎがたき様に存じ奉り候。小諸侯の収斂は高の知れたるものにて如何様にも防ぎ易き手段いくらも工夫付き申すべく候。」とて、幕府権力に食い入る財力はもはやないものの、中央から退き地方権力の宇都宮藩と結合して新田地主として生き残る道を目指したのです。当時財政に苦しんでいた宇都宮藩の政策ともうまく合致して、新田開発の事業は有利な条件で進みます。これには、宇都宮藩の家老間瀬和三郎(のちに藩主となる)、戸田三左衛門や、藩の勘定奉行県信緝との交流が大きく後押ししたようです。新田農民として入植する百姓のそのほとんどは、北陸出身の勤勉な真宗門徒でした。

 このように、木綿太物の商売から、新田開発地主への経営転換を図った理由は、単に災害による営業不振ということだけでなく、時局に対する大きな危機感があったためです。米国のペリー艦隊を始めとする外夷との戦争が必至であり、江戸は長期戦の末灰燼に帰すだろうと見る義兄訥庵の影響を深く受けていました。また、訥庵の主唱する商人国批判を受けて、賎商思想に劣等感を抱き、士農工商の上位に立つ武士階級への志向があったのではないかと思われます。新田開発が成ると、入植した百姓たちに武装させて、後の屯田兵のような組織を築き上げます。事実、新田開発の功によって、万延元年(186012月、宇都宮藩より7人扶持の士分格を与えられ、孝兵衛から介之介と名を改めます。宇都宮藩の藩儒として、主だった藩士に儒学を講じて、尊王攘夷思想を宇都宮藩に浸透させて行った教中の義兄訥庵とともに、教中は宇都宮藩に大きな影響を及ぼすようになったのです。

 

20110702hon4.jpg

 

教中の開発した岡本新田(宇都宮市東岡本町 旧河内郡東岡本)

 

 

◆質屋の通販サイト、東京都豊島区大塚の質屋「さのや」

 

◆ブランド買取専門館、金・プラチナ、バッグ、腕時計、古着、全国から宅配買取


 

ページトップへ