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投稿日:2011年08月13日

下野烈士伝より~教中伝 【さのや歴史講座 20】

明治34年九月に発刊された『下野烈士伝』の下巻に、菊池教中の伝記が掲載されています。

明治34年というと、日清戦争と日露戦争の間の時期にあたり、後の大正天皇のご成婚などもあり、国威発揚に日本全体が向かっていました。そのような歴史背景の下、明治維新で尊王運動に活動した人物を称揚する世情が生まれ、その一例として、栃木県でも勤皇志士を集めて、一巻の書物に編集したものです。

 

  

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 少し長文になりますが、興味のある方、暇を持て余している方は読んでみてください。

以下、漢詩の部分を除き、全文を現代表記にし、句読点を打ったものです。

 

「教中、字は介石、通称孝兵衛、後介之介と改む。澹如と号す。

下野宇都宮の人、家販鬻を業とし富豪を以て聞こゆ。別に江戸元濱町に店舗の設けあり、佐野屋と云う。父淡雅創始の肆なるを以て他の支店に比して、最も大なり。教中常に之に居り他を監督す。

父淡雅、通称は長四郎、淡雅は其の号なり。同国都賀郡(今下都賀郡に属す)粟の宮村、大橋英斎の子、年15の時宇都宮菊地介介の養子と為る。淡雅、性沈深温厚にして英材あり幼より良医となりて世人を救くわんことを志し、専ら文学に従事せしが、後養父の勧誘に応じ、翻然志を改め、商事に志し養父より本資を受け、江戸某町に開店したりき。是れ文化11年甲戌5月(1814年)の事にて淡雅26歳の時なり。後、追々業務盛大に至りしを以て今の処に居を移し、更に商舗を開きしに、一層繁昌して晩年には富巨万を重ぬるに至る。

教中後を受け、家に当り遺範を守り益々之を拡張せんと欲し、孜々勤勉怠らず。教中人為り寛容にして衆を愛、亦能く窮困を憐み、孤独を恤むに財を吝まず。嘗て宇都宮に在し時、雪夜に一僕を従え潜かに貧人の家を窺がい、金を投じて去りし事ありと云う。

 

有詩云  
(以下、詩文省略)

 嘉永葵丑(1853年)外国の事起るや、是の時幕威衰頽、政令行われず、義徒所々に勃興し、海内漸く多事ならんとす。教中形勢の日に迫るを視て以て謂らく、後日戦乱作りて江戸第一に災を被り、都下百萬焦土と化するの惨状に至るも、未だ知るべからず。然る場合に臨みて父の辛苦経営遺産を、一朝にして失わば、臍を咬むとも及ぶ無けん。嘗て聞く、領主宇都宮候の領内に荒蕪廃税の地多しと。若し之を興復して原税に復するを得ば、国計を益すること鮮少に非ず、且つ我が子孫の為め不虞に備うるの遠慮を為すに、若かずと。事実を具し領主に出願せしに、領主に於ても父淡雅以来の旧功を思い、其の請を許容ありて鬼怒川沿岸岡本桑島両村内若干の地を下賜せられたり。是に於て藩の吏員中其の道に精しきものを請うて之が経営に任し、荊棘を芟り溝恤を通じ、他村より貧窮の民を移し、之に糧食農具を給して開拓に従事せしむ。安政乙卯11月工を興し、文久辛酉某月に至り、全く竣工す。良田二百八十町歩、民家九十四戸、人口三百四十七を得たり。是より先、開墾の最中には、戸田侯現場に出馬ありて工事を奨励せられ、今や完成に至りしを以て家隷を選び、商店を管理せしめ、自身は宇都宮に帰往せり。然れども、商業を軽視せず、時々臨みて之を督励す。

教中幼より頴悟にして書を能くし、又画を嗜めり。父淡雅以来多く古人の名蹟を貯蔵せしが、中にも張東海、王覚斯の丈幅、呉仲圭の横巻、王耕煙の画帖の如き逸品と称すべきもの、教中其名品に就き、心を潜めて臨研習熟怠り無きを以て、弱冠の頃には造詣する所老熟の先輩よりも立ち超えて、能く品中に数えらるるに至れり。而して尤も精妙なりしは、草書にてありき。

平生人に接する畛域を設けず、賓客常に座に満ち、談話応答倦色無し。身を処する倹素を旨とし痛く奢を戒め、衣服飲食より身辺の器具に至るまで、麁朴なる者を用い虚飾なる物品は退けて用いず。

安政万延の際に至り、国家益々多事、義徒四方に起り、遠近騒然たり。教中慷慨に堪えず、姉夫大橋訥庵と謀り、人を京師に遣し、諸藩の動静を窺察して報告せしむ。是時に當り近國の志士、教中の平生義を重んじ、財を軽んじ、國事に盡すの高義を慕い、依頼して其の助力を乞うもの多し。教中善く之を遇し、其の志を達するを得せしむ為めに、費す所数千金に及ぶも毫も愛吝の色無し。

居止従容温雅、閑暇には文人墨客を會し文字の飲を為し、詩文を評し、書画を玩び、歓娯談笑家人と雖ども、其の密謀あるを知るもの無し。

文久二壬戌正月十五日、平山兵介等七人、安藤閣老を要撃す。安藤氏、創を被り僅かに免る。又、宇都宮藩人岡田松本等一橋公を奉じ、将さに義兵を挙んとす。事発覚、縛に就く。皆教中並に訥庵に連及し、終に刑獄に繋がる事情、頗る危殆なり。其の後、安藤氏退職と為り、頓に形勢一変、阪下に関する詮議は措て、問所無し。是年七月廿五日、幕府教中を獄より出し、更に宇都宮藩邸に禁固す。一日、俄然暴瀉を発し病む、僅に一日にして、遂に起たず。享年三十有五。是年八月八日なり。

教中、性敏捷多技、文学を好み詩文を善くし、晩年には武術に志し、良馬二三頭を蓄養し、庭園に馬埒を設けて調馬を試み、開墾地巡検の如き、概ね乗馬にて往返を為し、又撃剣をも研究せり。言義に及べば、慷慨憤發、他日有事の日、弓箭を執り、駿馬に鞭ち、行て皇軍に従わんと誓へり。或は傳う、肥後菊池氏の遠裔なりと。然れども家に舊記の徴すべき者無し。教中は名族の聲望を假り、敢て家系を文る如きは素より潔とせざる所なれども、其の志に於ては深く正觀公の高風を景慕したりとぞ。是故に身は商家に生れながら、常に文武に志し国を重んじ、財を軽んじ、国家を憂えて一身を顧みず不測の危機を踏み、囹圄に陥ると雖も、其の志操の屈撓せざる者、蓋し公の忠烈に感發興起する所在りて、然るを見るべし。維新の後靖國神社へ合祀せらる。」

 

以上が掲載された全文です。伝記の慣わしとして、かなりお世辞も混じっていると思われますが、事実関係は大部分が真実です。

 

 

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 教中法書 書道のお手本のようなもので、教中の筆跡です。

 

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