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投稿日:2011年11月19日

小塚原回向院 【さのや歴史講座 22】

小塚原回向院は、荒川区南千住5-33-13にあり、JR南千住駅南口からすぐのところにあります。下は回向院の前景ですが、建物をくぐったところに墓地があります。

 
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小塚原は慶安4年(1651年)に創設された、鈴が森、板橋と並ぶ江戸時代の刑場です。明治初年に廃止されるまで、20万人以上の処刑者や獄死者がここに埋葬されたそうです。埋葬とは言うものの、遺体はわずかに土を被せられた程度で捨て置かれ、鳥獣の食い荒らすに任せられていたようで、あたり一帯には異臭が立ち込め、まるで地獄そのものであったと言われます。
小塚原回向院は、これら刑死者を供養するため、寛文7年(1667年)本所回向院の別院として当時の住職・第誉義観上人が建立したものです。
鼠小僧次郎吉や毒婦高橋お伝など歴史的有名人(?)の墓や、安政大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内の墓、桜田門外の変で亡くなった水戸浪士たち、坂下門外の変で闘死した志士たちの墓があります。

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当時をしのぶよすがもなく、現在では手厚く葬られていますが、「刑死累累鬼火青 枕頭時覚北風腥 婆心憂世夜何睡 起自窓端見大星」 これは大橋訥庵の作で、安政大獄事件で刑死した頼三樹三郎の遺体が小塚原に打ち捨てられてあったのを、見かねて深夜に塾生を連れて傷んだ遺体を収容し、水で清め装束を着せて寺院に埋葬した時に詠まれた漢詩です。もちろんこのような行為は幕政下ではご法度で、後に訥庵が一橋一件で幕府に逮捕された時もこのことが追及されます。

 

また、回向院の墓地を入ってすぐのところに、「烈婦瀧本の碑」が建てられています。瀧本は江戸吉原の遊女でしたが、桜田門事件の中心人物、水戸藩の関鉄之助の愛人でした。関が攘夷のことを打ち明けて良くその志を理解したそうです。この後桜田事件の時には、瀧本の家から関らを出撃させ、こと成るや瀧本も捕えられ、謀議の様子について厳しく拷問を受けますが、瀧本は屈せず、ついに口を閉ざしたまま23歳の生涯を獄中に終えたそうです。
大正10年に、桜田義挙に殉じた瀧本を顕彰して石碑が建てられたものです。
この石碑の本文は、佐野屋の日本橋店(佐孝)の4代目、惺堂菊池長四郎の書になります。
 

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理事長とあるのは、当時惺堂が烈士遺蹟保存会理事長を務めていたためで、この石碑の篆額は資本主義の祖とされる渋沢栄一氏の書、撰文の岩崎英重氏は坂本竜馬研究で知られ、「桜田義挙録」の著者です。

 

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