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「質屋さのや」は、ブランド品のバッグ、時計、宝飾品、古着、雑貨の販売、又一般の商品からブランド品まで幅広い買取、更に質契約では品物をお預かりし融資しています。「質屋さのや」は東京で創業90年、「質屋さのや」は信頼と安心を常に全ての営業の基本としています。

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さのや500年の歴史を探る

質屋さのやのルーツを辿る

質屋さのやは、大正11年(1922年)11月、本所石原町から東京大塚の地に分家し、質屋を構えて94年目を迎えました。ほぼ1世紀にわたり、大塚の地で庶民金融を営んで来た歴史を持つさのやですが、そのルーツを辿ると、さらに時代をさかのぼり江戸時代に活躍していた記録が残っています。 

質屋さのや -「佐野屋」屋号の由来 -

佐野屋の屋号は江戸時代から今日まで、質屋の名称としてずっと使われてきました。屋号の由来は、嘉永7年(1854年)に成立したと考えられる「菊池家中興の系図」によれば「元祖は塩を商いしよし。・・・元祖は何の頃宇都宮に移り住しにや、元は佐野より出たる人のよしなり」とあり、出身が栃木県佐野であったことから、屋号の佐野屋を名乗ってきました。

「菊池家中興の系図」は、菊池家第四代目から第十一代目までの家系と分家、別家について編年体で記録されています。著者については記載がありませんが、佐野屋佐孝店二代目菊池教中(1828~1862)であろうと類推されます。

菊池家中興の系図

 

質屋さのやの起源

佐野屋の勃興については、明和年間の大火事によって記録が焼失してしまったため、第四代目以前については不明です。「此の前三代は皆長四郎を以て称とす、また先祖何代ということを知らず。その故は明和年中の大火に菩提所も共に類焼して系図等尽く焼失せしにぞ」(「菊池家中興の系図」より)

記録の残っている最古の人物が菊地長四郎孝昌で、徳川幕府第四代将軍家綱の時代、承応4年(1655年)の没年です。この人より本家が振興したとあります。栃木県宇都宮で古着の商いと質屋を営業していました。この後、第七代目菊地治衛門(1690~1748)になって、大阪方面まで出向いて古着を売買するようになり、中興の大功を収めました。

この頃より、分家・別家による各地への出店が相次ぎ、第十代目治衛門孝古(1776~1814)の時には10店舗に拡大し、さらに江戸日本橋や千葉佐原など栃木県外にも進出するようになります。宇都宮の佐野屋菊地治衛門家=佐治を本家として、日本橋の佐野屋孝兵衛家=佐孝、佐原の橋本文蔵家=司店、江戸下谷車坂の吉田丹兵衛家=佐丹と3つの大店が中核となって、佐野屋が大きく発展して行くのが江戸時代も中期を過ぎた文化年間(1800年頃)になります。

 

質屋さのやの歴史 - 江戸出店 -

栃木県宇都宮に本拠を置く佐野屋が江戸に進出出店したのが、今からおよそ200年前の文化11年1月(1811年)のことでした。大橋知良は第十代目菊池治衛門孝古の長女民子と養子縁組して菊池家に入り菊池長四郎を名乗りました。

日本橋に出店した佐野屋は、栃木県の真岡木綿を取り扱うことで、飛躍的に業績を伸ばして、白木屋、大丸屋、越後屋などと肩を並べる白子組問屋仲間の一員となりました。また当時の文人画家、椿椿山や渡辺崋山などとの交流、高久靄崖父子への資金援助などを通して、日本画への造詣や収集、鑑定なども手がけました。

菊池家中興の系図菊池家中興の系図

 

日本橋初代の淡雅が嘉永6年になくなると、二代目の教中は、黒船来航による江戸の混乱や安政大地震による損害を機に、宇都宮に戻って鬼怒川沿岸の新田開発などに商売の転換を図ろうとしました。また一方、姉の夫で儒者の大橋訥庵を中心とした、宇都宮を中心とする尊王攘夷運動に加わって資金的な黒幕となり、後に坂下門外の変に連座して幕府に捕縛されてしまいます。地震による損害や、新田開発の費用、獄中への支援と助命嘆願運動などで、多大な資金を費やすことになりました。教中は許されて半年後に出牢することができましたが、出牢後まもなく亡くなってしまいます。

菊池教中像

 

質屋さのやの歴史 - 江戸から明治へ -

三代目の菊池長四郎政隆は、幕末に起こった佐野屋の存亡の危機を、古くからの手代たちの手助けも得て乗り越えました。教中の新田開発を完成させ、幕末から明治へと世の中が近代化するのに対応して、近代資本家として銀行や繊維会社など多数の会社の役員となり、商売の転換に成功しました。

三代目の時に、妹の久子に宇都宮本家筋から婿を迎えて、本所石原に質屋を出店します。本所の佐野屋は質屋としても規模が大きく、東京の質屋番付で上位に数えられていました。

さのやのルーツ

明治から大正にかけて、日本橋と本所で順調に発展して行った佐野屋ですが、大正12年の関東大震災で、ともに大きな被害を受け、本所の佐野屋は家屋敷ごと焼失、日本橋佐野屋も被害を回復することが難しく、昭和2年には閉業のやむなきに至っています。 大塚の佐野屋は、関東大震災の前年、大正11年11月に、本所佐野屋から分家して大塚に出店しました。本所、日本橋が壊滅的大被害に遭ったのに対して、大塚佐野屋は幸い大した被害もありませんでした。

太平洋戦争末期に空襲で大塚も焼けてしまいましたが、終戦とともに再興し今日に至っています。

中古ブランド品販売のパイオニア

1990年代の初めに現社長のもと、質屋の質草としてのブランドバッグ(ルイ・ヴィトン、エルメスなど)を早々に取り入れ、ブランドバッグの鑑定法を早くから研究開発してきました。1995年頃に北は北海道から南は九州まで全国の都市を回り、のべ2000人以上の質屋さんやその子弟に「ブランドバッグ講習会」という場を設けて、鑑定法や取扱方法について講習を行ってきました。

「さのや」はこうして、常に質屋として、中古ブランド品の販売のパイオニアとして、社員全員がチャレンジしています。この「さのや」のホームページも大きなチャレンジのひとつです。しかしその一方、庶民金融としての質屋の発展も忘れてはいません。国内有数の宝石鑑定機関から講師を招き年間を通じて社員研修に力を入れて、人材養成に努めています。こうして現在も全国でトップグループに入る質屋営業を続けています。

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