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ブログ記事一覧

【さのや歴史講座】の記事一覧です

投稿日:2011年11月19日

小塚原回向院 【さのや歴史講座 22】

小塚原回向院は、荒川区南千住5-33-13にあり、JR南千住駅南口からすぐのところにあります。下は回向院の前景ですが、建物をくぐったところに墓地があります。

 
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小塚原は慶安4年(1651年)に創設された、鈴が森、板橋と並ぶ江戸時代の刑場です。明治初年に廃止されるまで、20万人以上の処刑者や獄死者がここに埋葬されたそうです。埋葬とは言うものの、遺体はわずかに土を被せられた程度で捨て置かれ、鳥獣の食い荒らすに任せられていたようで、あたり一帯には異臭が立ち込め、まるで地獄そのものであったと言われます。
小塚原回向院は、これら刑死者を供養するため、寛文7年(1667年)本所回向院の別院として当時の住職・第誉義観上人が建立したものです。
鼠小僧次郎吉や毒婦高橋お伝など歴史的有名人(?)の墓や、安政大獄で処刑された吉田松陰、橋本左内の墓、桜田門外の変で亡くなった水戸浪士たち、坂下門外の変で闘死した志士たちの墓があります。

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当時をしのぶよすがもなく、現在では手厚く葬られていますが、「刑死累累鬼火青 枕頭時覚北風腥 婆心憂世夜何睡 起自窓端見大星」 これは大橋訥庵の作で、安政大獄事件で刑死した頼三樹三郎の遺体が小塚原に打ち捨てられてあったのを、見かねて深夜に塾生を連れて傷んだ遺体を収容し、水で清め装束を着せて寺院に埋葬した時に詠まれた漢詩です。もちろんこのような行為は幕政下ではご法度で、後に訥庵が一橋一件で幕府に逮捕された時もこのことが追及されます。

 

また、回向院の墓地を入ってすぐのところに、「烈婦瀧本の碑」が建てられています。瀧本は江戸吉原の遊女でしたが、桜田門事件の中心人物、水戸藩の関鉄之助の愛人でした。関が攘夷のことを打ち明けて良くその志を理解したそうです。この後桜田事件の時には、瀧本の家から関らを出撃させ、こと成るや瀧本も捕えられ、謀議の様子について厳しく拷問を受けますが、瀧本は屈せず、ついに口を閉ざしたまま23歳の生涯を獄中に終えたそうです。
大正10年に、桜田義挙に殉じた瀧本を顕彰して石碑が建てられたものです。
この石碑の本文は、佐野屋の日本橋店(佐孝)の4代目、惺堂菊池長四郎の書になります。
 

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理事長とあるのは、当時惺堂が烈士遺蹟保存会理事長を務めていたためで、この石碑の篆額は資本主義の祖とされる渋沢栄一氏の書、撰文の岩崎英重氏は坂本竜馬研究で知られ、「桜田義挙録」の著者です。

 

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投稿日:2011年08月13日

下野烈士伝より~教中伝 【さのや歴史講座 20】

明治34年九月に発刊された『下野烈士伝』の下巻に、菊池教中の伝記が掲載されています。

明治34年というと、日清戦争と日露戦争の間の時期にあたり、後の大正天皇のご成婚などもあり、国威発揚に日本全体が向かっていました。そのような歴史背景の下、明治維新で尊王運動に活動した人物を称揚する世情が生まれ、その一例として、栃木県でも勤皇志士を集めて、一巻の書物に編集したものです。

 

  

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 少し長文になりますが、興味のある方、暇を持て余している方は読んでみてください。

以下、漢詩の部分を除き、全文を現代表記にし、句読点を打ったものです。

 

「教中、字は介石、通称孝兵衛、後介之介と改む。澹如と号す。

下野宇都宮の人、家販鬻を業とし富豪を以て聞こゆ。別に江戸元濱町に店舗の設けあり、佐野屋と云う。父淡雅創始の肆なるを以て他の支店に比して、最も大なり。教中常に之に居り他を監督す。

父淡雅、通称は長四郎、淡雅は其の号なり。同国都賀郡(今下都賀郡に属す)粟の宮村、大橋英斎の子、年15の時宇都宮菊地介介の養子と為る。淡雅、性沈深温厚にして英材あり幼より良医となりて世人を救くわんことを志し、専ら文学に従事せしが、後養父の勧誘に応じ、翻然志を改め、商事に志し養父より本資を受け、江戸某町に開店したりき。是れ文化11年甲戌5月(1814年)の事にて淡雅26歳の時なり。後、追々業務盛大に至りしを以て今の処に居を移し、更に商舗を開きしに、一層繁昌して晩年には富巨万を重ぬるに至る。

教中後を受け、家に当り遺範を守り益々之を拡張せんと欲し、孜々勤勉怠らず。教中人為り寛容にして衆を愛、亦能く窮困を憐み、孤独を恤むに財を吝まず。嘗て宇都宮に在し時、雪夜に一僕を従え潜かに貧人の家を窺がい、金を投じて去りし事ありと云う。

 

有詩云  
(以下、詩文省略)

 嘉永葵丑(1853年)外国の事起るや、是の時幕威衰頽、政令行われず、義徒所々に勃興し、海内漸く多事ならんとす。教中形勢の日に迫るを視て以て謂らく、後日戦乱作りて江戸第一に災を被り、都下百萬焦土と化するの惨状に至るも、未だ知るべからず。然る場合に臨みて父の辛苦経営遺産を、一朝にして失わば、臍を咬むとも及ぶ無けん。嘗て聞く、領主宇都宮候の領内に荒蕪廃税の地多しと。若し之を興復して原税に復するを得ば、国計を益すること鮮少に非ず、且つ我が子孫の為め不虞に備うるの遠慮を為すに、若かずと。事実を具し領主に出願せしに、領主に於ても父淡雅以来の旧功を思い、其の請を許容ありて鬼怒川沿岸岡本桑島両村内若干の地を下賜せられたり。是に於て藩の吏員中其の道に精しきものを請うて之が経営に任し、荊棘を芟り溝恤を通じ、他村より貧窮の民を移し、之に糧食農具を給して開拓に従事せしむ。安政乙卯11月工を興し、文久辛酉某月に至り、全く竣工す。良田二百八十町歩、民家九十四戸、人口三百四十七を得たり。是より先、開墾の最中には、戸田侯現場に出馬ありて工事を奨励せられ、今や完成に至りしを以て家隷を選び、商店を管理せしめ、自身は宇都宮に帰往せり。然れども、商業を軽視せず、時々臨みて之を督励す。

教中幼より頴悟にして書を能くし、又画を嗜めり。父淡雅以来多く古人の名蹟を貯蔵せしが、中にも張東海、王覚斯の丈幅、呉仲圭の横巻、王耕煙の画帖の如き逸品と称すべきもの、教中其名品に就き、心を潜めて臨研習熟怠り無きを以て、弱冠の頃には造詣する所老熟の先輩よりも立ち超えて、能く品中に数えらるるに至れり。而して尤も精妙なりしは、草書にてありき。

平生人に接する畛域を設けず、賓客常に座に満ち、談話応答倦色無し。身を処する倹素を旨とし痛く奢を戒め、衣服飲食より身辺の器具に至るまで、麁朴なる者を用い虚飾なる物品は退けて用いず。

安政万延の際に至り、国家益々多事、義徒四方に起り、遠近騒然たり。教中慷慨に堪えず、姉夫大橋訥庵と謀り、人を京師に遣し、諸藩の動静を窺察して報告せしむ。是時に當り近國の志士、教中の平生義を重んじ、財を軽んじ、國事に盡すの高義を慕い、依頼して其の助力を乞うもの多し。教中善く之を遇し、其の志を達するを得せしむ為めに、費す所数千金に及ぶも毫も愛吝の色無し。

居止従容温雅、閑暇には文人墨客を會し文字の飲を為し、詩文を評し、書画を玩び、歓娯談笑家人と雖ども、其の密謀あるを知るもの無し。

文久二壬戌正月十五日、平山兵介等七人、安藤閣老を要撃す。安藤氏、創を被り僅かに免る。又、宇都宮藩人岡田松本等一橋公を奉じ、将さに義兵を挙んとす。事発覚、縛に就く。皆教中並に訥庵に連及し、終に刑獄に繋がる事情、頗る危殆なり。其の後、安藤氏退職と為り、頓に形勢一変、阪下に関する詮議は措て、問所無し。是年七月廿五日、幕府教中を獄より出し、更に宇都宮藩邸に禁固す。一日、俄然暴瀉を発し病む、僅に一日にして、遂に起たず。享年三十有五。是年八月八日なり。

教中、性敏捷多技、文学を好み詩文を善くし、晩年には武術に志し、良馬二三頭を蓄養し、庭園に馬埒を設けて調馬を試み、開墾地巡検の如き、概ね乗馬にて往返を為し、又撃剣をも研究せり。言義に及べば、慷慨憤發、他日有事の日、弓箭を執り、駿馬に鞭ち、行て皇軍に従わんと誓へり。或は傳う、肥後菊池氏の遠裔なりと。然れども家に舊記の徴すべき者無し。教中は名族の聲望を假り、敢て家系を文る如きは素より潔とせざる所なれども、其の志に於ては深く正觀公の高風を景慕したりとぞ。是故に身は商家に生れながら、常に文武に志し国を重んじ、財を軽んじ、国家を憂えて一身を顧みず不測の危機を踏み、囹圄に陥ると雖も、其の志操の屈撓せざる者、蓋し公の忠烈に感發興起する所在りて、然るを見るべし。維新の後靖國神社へ合祀せらる。」

 

以上が掲載された全文です。伝記の慣わしとして、かなりお世辞も混じっていると思われますが、事実関係は大部分が真実です。

 

 

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 教中法書 書道のお手本のようなもので、教中の筆跡です。

 

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投稿日:2011年07月02日

淡雅から教中へ 【さのや歴史講座 19】

 

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    眼鏡をかけた菊池教中


 文化11年(1811)江戸日本橋に店を開いた佐野屋は、淡雅の一代にして豪商にまで成長しました。絶頂期を迎えた嘉永6年(1853)、淡雅は病没し、その子教中へ家督が受継がれます。このとき教中は26歳、店を引き継ぐとすぐに大きな逆境に遭遇します。
 このとき、教中は大胆な決断を迫られることになります。商売の大転換、そして、幕末へと世の中が騒然として行く中で、尊王攘夷の思想へ自らのめり込んで行くようになるのです。明治維新を迎える前の文久年間に活動した教中周辺に何が起こったか、そして、その行動の意義と時代に与えた影響について考えて行こうと思います。

 淡雅の没したのが嘉永65月、その翌月には米国のペリーが率いる黒船の浦賀来航、6月にはその艦隊が品川沖に威力進出して空砲を放つなど世情騒然となり、米国との戦争で江戸は砲火に包まれるなどの噂も広がって、江戸庶民の間では恐怖心から江戸を捨てて退去する人々も多かったそうです。
 更に、翌年の安政210月には安政江戸大地震が江戸を襲います。この地震により日本橋一帯も火災に見舞われ、大きな打撃となりました。

 安政江戸地震はマグニチュード6.9、最大震度が6と推定されますが、震源が荒川河口付近の直下型地震だったために、倒壊家屋も多く甚大な被害となったそうです。その前年の安政11223日にはM8.4、震度7の東海大地震が、32時間後の1224日にはM8.48.5、震度6の南海地震が相次いで発生しています。

この3つの地震を安政三大地震と呼んでいますが、この2年の内に伊賀・上野地震、飛騨地震、飛越地震などが連動して発生しています。

今年3月に発生した東日本大震災のメカニズムと似た現象で、東京の直下型地震が危ぶまれます。 
 

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安政210月、江戸大地震後の時点で、佐野屋の損害は3370両に及び、教中はついに経営の転換を図らざるを得なくなります。ちなみに3万両というと(1両=6万円の計算で)18億円に相当します。パチンコでも千両箱が積まれている光景を見かけますが、ヒノキの千両箱に小判を詰めると重さが15kgくらいになります。3万両となると、この箱が30個ですから重さにして450kg、ちょっと想像できないくらいですね。 このような甚大な被害状況でした。
 安政1年の棚卸では、「第一、昨年東海院(淡雅)様御死去、その後異国船渡来、世上不穏、商内も皆々存じの通り、開店以来これなき不勘定」(菊池小次郎家文書)となりました。

 翌安政2年には大地震があり、その10月(旧暦)に佐野屋店内の改革議定を行うのやむなきに至ります。

嘉永6年以来、「3か年の間、天災引き続き、宇都宮宅類焼、先君(淡雅)ご死去、異船騒擾、ご領主御用金、御公儀御用金、東海道筋大地震、ご領主無利足年賦、地面類焼、白子船破船、江戸店並びに堺町類焼、此の度大地震」(菊池小次郎家文書)の11カ条を上げて、教中は経営方針を全面的に変更する決意を固めます。

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嘉永3年(1850)旧暦4月 教中書(22歳)
  教中の決意とは、江戸から資本を引き揚げ、新田開発経営を中心とする領地経営に乗り出すという計画です。教中から大橋訥庵に宛てた書状に次のように所信を述べています。


「末世にはいかなる苛政に逢い申すべきもはかりがたく、公儀にて戦争相起こり候よう相成り候えば、

町家などは甚だしく収斂に逢い候儀必定にて、もっとも公儀の用金等は防ぎがたき様に存じ奉り候。小諸侯の収斂は高の知れたるものにて如何様にも防ぎ易き手段いくらも工夫付き申すべく候。」とて、幕府権力に食い入る財力はもはやないものの、中央から退き地方権力の宇都宮藩と結合して新田地主として生き残る道を目指したのです。当時財政に苦しんでいた宇都宮藩の政策ともうまく合致して、新田開発の事業は有利な条件で進みます。これには、宇都宮藩の家老間瀬和三郎(のちに藩主となる)、戸田三左衛門や、藩の勘定奉行県信緝との交流が大きく後押ししたようです。新田農民として入植する百姓のそのほとんどは、北陸出身の勤勉な真宗門徒でした。

 このように、木綿太物の商売から、新田開発地主への経営転換を図った理由は、単に災害による営業不振ということだけでなく、時局に対する大きな危機感があったためです。米国のペリー艦隊を始めとする外夷との戦争が必至であり、江戸は長期戦の末灰燼に帰すだろうと見る義兄訥庵の影響を深く受けていました。また、訥庵の主唱する商人国批判を受けて、賎商思想に劣等感を抱き、士農工商の上位に立つ武士階級への志向があったのではないかと思われます。新田開発が成ると、入植した百姓たちに武装させて、後の屯田兵のような組織を築き上げます。事実、新田開発の功によって、万延元年(186012月、宇都宮藩より7人扶持の士分格を与えられ、孝兵衛から介之介と名を改めます。宇都宮藩の藩儒として、主だった藩士に儒学を講じて、尊王攘夷思想を宇都宮藩に浸透させて行った教中の義兄訥庵とともに、教中は宇都宮藩に大きな影響を及ぼすようになったのです。

 

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教中の開発した岡本新田(宇都宮市東岡本町 旧河内郡東岡本)

 

 

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投稿日:2011年05月07日

淡雅の足跡を辿って~奥鬼怒温泉郷【さのや歴史講座 17】

奥鬼怒四湯と呼ばれる山奥の温泉郷があるのをご存知でしょうか。栃木県は那須火山帯に属しており、那須、塩原、鬼怒川、川治などの天然温泉に恵まれています。その中でも秘湯とも言えるのが、湯西川温泉、川俣温泉といった福島県、群馬県境にほど近い温泉地になります。

奥鬼怒温泉郷は、男体山の裏側、川俣温泉から更に12kmも奥まったところにあります。 

 


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女夫渕(めおとぶち)から先の、奥鬼怒スーパー林道は、自然保護のため一般車の通行は禁止されています。県営駐車場に車を乗り捨てて、徒歩で奥鬼怒遊歩道を歩いて行くか、宿泊者であれば、旅館の送迎バスで奥鬼怒温泉を目指すことになります。徒歩での行程は鬼怒川渓流に沿って軽い登り道で、ゆっくり歩いても1時間30分ほどの比較的楽なハイキングコースです。鬼怒川渓流に掛かる橋を何度か渡り、渓流を左右に眺めながらのハイキングは快適です。

手白沢温泉、八丁の湯、加仁湯、日光沢の4つの温泉が奥鬼怒四湯です。この中でも、日光沢温泉は昔の湯治場の面影を残し、泊まるのにちょっと躊躇しそうな大変鄙びた宿です(下画像)。 

 

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 さて、本題に入りますが、この奥鬼怒温泉は嘉永4年(1851)佐野屋の菊池孝兵衛(淡雅)が再開発したことが「淡雅行実」という書に記録されています。以下、簡単に内容を訳します。

「日光沢というところは日光山より奥に入ること12里(48km)で、男体山の背後にあたる。近年、この地に温泉を発見したが、深山の不便な地のために、設備を整えることもなく掘っ立て小屋のようなものがあるだけであった。それでも奇功の多い霊泉という噂が広まって、湯治に尋ねる人が絶えない。

日光沢の手前3里(12km)には川俣温泉があって、ここには湯守がいるのだが、設備も荒れ果てて粗末なものである。川俣温泉でさえこのような様子である。ましてや、その奥の日光沢というところは、道のような形跡があるにはあるのだけれども、とても険阻な道で、途中鬼怒川の水源を8回も渡らねばならないので、万一大雨にでもなれば、帰り道が塞がれるのを怖れて、行きたくとも行けない人が多いという。 

 

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(鬼怒川源流の渓流)

 

多くの人が温泉の効能を享受できればと以前から心にかけて果たせなかった淡雅は、嘉永45月に息子の教中と佐野屋従業員の源兵衛を伴い現地調査に訪れる。そこには、2間×5間(10坪足らず)の根小屋のような建物があるのだったが、入り口や窓も大変小さくて、火炉が一つあるだけ、トイレさえもなく、部屋の隅に糞尿があったりするような汚さであった。淡雅一行は数日間その地に滞在して、地形などを隈なく観察した後川俣に戻り、温泉経営について協議した。

その結果、約15坪ほどの長屋を建設し、部屋を3部屋に区切って、各部屋に火炉を置き、畳を敷き詰めて、戸や障子を立て、トイレや流し場も設ける。脱衣場もなかった浴場には、新たに脱衣場と屋根を作って、湯殿も新しく作る。アクセスに関しても、温泉場までの3里の道を開いて歩きやすくし、鬼怒川には洪水でも流れない頑丈な橋を架けることになった。

施工を里正(川俣部落の長)と川俣温泉の湯守に託し、費用を渡して帰った。翌年には工事も完成して、淡雅も視察に出かけると、思った通りに出来上がっており、村民や旅客は大変喜んだということである。

この2年後に淡雅は病没したが、これを伝え聞いた川俣部落の人々は、淡雅の死を悼み、その名を小板に記して、みなが集まって念仏を唱えたということである。517日に亡くなったのが、その月の26日には早くもあのような山中に伝わったということは、当時としては驚くべきことであった。」

(全文はこちらhttp://home.f07.itscom.net/rainbow/spa_kaihatsu.html ) 

 

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(淡雅開発の当時を思いながら、奥鬼怒への道を辿る)

 

奥鬼怒4湯はすべて源泉掛け流し、混浴露天風呂を含め、それぞれに様々な風呂を楽しむことができます。普通の旅館を希望ならば、一番大きく、5本の源泉を持ち、設備も整っている加仁湯がお勧め。ここは、小松さんというマタギのご子孫が経営していて、奥鬼怒の案内本も出版しています。 

 


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(加仁湯の玄関、鉄筋造りに瓦屋根が珍しい)

 

いくらか野趣をお好みの方には、八丁の湯がお勧めです。広々とした空間に天然の滝を間近に眺めることのできる、「滝見露天風呂」は今まで行った温泉の中でも最高。ただし、混浴ですので、ご婦人方は深夜にこっそり入浴ということになります。宿は木造の本館と別に、ログハウスもあって家族連れに喜ばれているようです。ただし、テレビとかLANなどとは縁のない裸電球一つの世界です。携帯は何とか繋がるようです。

 


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(八丁の滝見露天風呂)

 

奥鬼怒の魅力は温泉だけではありません。温泉を基地に、鬼怒川の源流を辿ると、国内で最も高地にある湿原の一つ、鬼怒沼があります。標高2040mの沼地は別天地で、春や秋には高山植物が咲き乱れ、また、日光白根山や群馬県・福島県の山並みが望める絶景です。ただし、ここへ行くには徒歩しかありません。奥鬼怒温泉から往復で7時間、標高差700mの登りは険しい山道を歩かなければなりません。 

 


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(鬼怒沼湿原、右端、今は亡き八丁の登山犬チビ)

 

 「まんが日本昔ばなし」に登場する「奥鬼怒の機織姫」は、この湿原が舞台になっています。

また、「鬼怒の中将乙姫伝説」ではこの湿原は「天空の竜宮城」とされています。

鬼怒川の伝説 詳しくは、こち

 

淡雅による佐野屋の江戸進出から数えて、今年はちょうど200年になります。現在の大塚の地へ出店してから89年。歴史の重みを感じながら、新しい時代の質屋にチャレンジするさのやです。

 

 

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投稿日:2011年04月20日

佐原別家の消息 佐野屋司店(2)【さのや歴史講座 11】

佐原で見つけた意外なものとは、

     淡雅(佐孝店初代 佐野屋長四郎)の位牌

     孝古(佐野屋本家10 佐野屋治右衛門)の墓

でした。

 

画像が位牌やら墓石やらで、ちょっと不気味なものになってしまいますが。

 

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佐原の橋本宅で掛け軸を前にお話を聞いていると、橋本さんが奥様に「あれを持ってきてみなさい。」と言って、奥様が奥から持ってきたのが時代を感じさせる位牌でした。

 そこに記されている戒名は「東海院淡雅温卿居士」とあります。他でもない、江戸に進出した佐孝店の初代、佐野屋孝兵衛(大橋知良、菊池長四郎)の戒名に他なりません。

 なぜ佐原の司店に淡雅の位牌が安置されているのでしょう? 

橋本さんのお話では、坂下門事件があったため、幕府の追及を逃れるため、佐原へ疎開したとの説でした。事件の黒幕とされる、大橋訥庵の位牌もあるということでした。

橋本文蔵と淡雅とは10歳ほど文蔵の方が年長です。文蔵の没年が未確認ですが、淡雅は65歳で亡くなっています。この9年後に坂下門事件が勃発しています。位牌と事件との関係は、ミステリーです。

  

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上は、橋本家の墓所(香取市、長妙山浄国寺)にあった古い墓石です。「賢徳院深龍智底居士」これはかなり特徴のある戒名です。一度目にすれば記憶に残る戒名で、その場では思い出すことができず、家に帰ってから調べたところ、予想通り佐野屋本家10代目の孝古菊池治右衛門のものと分かりました。

 橋本文蔵を育て、佐原へ出店させたのが孝古です。文化7年(181010月のことでした。孝古はその4年後の文化11年戌5月に亡くなっています。江戸へ出店した淡雅や、宇都宮に分家として出店した吉田丹兵衛などと共に、橋本文蔵もこの死を大変に悼み、悲しみに暮れたことだろうと推察できます。

 文蔵は、おそらく遺骨を頂いて自分の住む土地に分骨埋葬したものと思われます。

 

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上は、前回紹介した橋本家に伝わる掛け軸の賛をそのまま写したものです。

 

また、孝古が文蔵を良く教導し愛したことを示す逸話が、「淡雅雑著」(淡雅行実)の中にあります。

 

下総の佐原に開店したる文蔵は、16歳の時より君に仕えたる者なり。かつて上方筋へ仕入れ物に遣はされし時、尾州名古屋にて、書付を書かねばならぬ事ありしに、文蔵元来無筆なりしがば、殊の外に赤面して、慚汗(ざんかん=恥じて汗の出ること)腋をうるおしたり。帰郷の後、その事を君に語り、文字の書けぬほど、男子の恥辱はあるまじと言いければ、君それを聞きたまふて、そもそも汝は心の小さき男かな、古より名将と云われし者にも、無筆無算の人甚だ多し。自己は無筆無算にても、その芸に達せる者を抱へて従へ行かば、絶て患とするには足らず。総て大将たらんと欲する者は、気を大きく見を高く持て、瑣細の事には目を属せず、恥辱とも思はぬ者ぞと言(のたま)ひければ、文蔵もその気象の高きに感服して、それよりはその筋に心を潜めたりとぞ。

また文蔵、風と遊妓に馴染みて、夜具を作りて与えざればならぬ事出来たりしが、元来潔白の性質にて、金銀を私するやうの事なき男なれば、甚だ昏惑して、如何ともせんすべなし、因て君の前に出でて、明にその始末を訴へ、己が罪を謝しければ、君熟く聞てそは是非もなき事ゆえ、何程となりとも金子持参すべし。汝が過は賞すべきことに非ざれども、その蔽ひ隠さざる心に愛でて遣すなり。何事も右の如くに明白なれば、一個の男子となることあらんと、事もなげに言ひしとぞ。その気象の豪邁快豁にあられんこと想ふべし。

文蔵と丹兵衛の両人は、君の識鑒(鑑識)にて開店を命ぜられ、各々その業を隆盛にせし者なり。詳なることは、先孝淡雅君の書かれたる、二人の墓表に就て見るべし。」

 

(文蔵の墓表とはおそらく上に掲載した掛け軸の賛に当たるのではないだろうか。また、丹兵衛の墓表は宇都宮生福寺の丹兵衛墓に刻まれている。)

 

佐原文蔵家=佐野屋司店の歴史については、橋本さんの弟さんが研究しているとお聞きしました。そのうち是非その成果を拝見したく思います。

 

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上の画像は、佐原の近くにある香取大神宮社。遠方より多くの参拝者を集める有名な神社です。この末は亀戸を始めとして東北関東を中心として全国に広がりを見せています。

 

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投稿日:2011年04月02日

淡雅の足跡を辿って【さのや歴史講座 10】

江戸に進出して、佐野屋を一代にして豪商に築き上げた菊池長四郎(寛政元年~嘉永6年 号淡雅)については、様々な史料が残されています。

     掛け軸などの墨蹟 ② 商売についての著作 ③ 墓所 ④ 石碑 等々、

この中でも、活動の足跡を 墓所 ④ 石碑 に見ることができます。

 

谷中天王子墓苑(東京都台東区谷中7-14-8)

淡雅の墓所は2ヶ所に存在します。東京谷中の天王寺と、宇都宮寺町(現:仲町)生福寺です。天王寺墓苑は淡雅以下の大橋家代々の墓所で、淡雅の墓を中心に、儒学者大橋訥庵とその妻巻子(淡雅長女)の墓をはじめ一族の墓石が広い敷地に整然と並んでいます。

  

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谷中天王寺墓所にある大橋家墓所

 

淡雅の最期について、妻の民子が日記に記しています。

 

嘉永6年(1853
59日 昼八ッ半過ぎ俄に発熱下痢是れ有り
10
日 昼頃漸く汗出、熱さめる
13
日  下痢いまだ止ず
14
日  いよいよ大病になる
15
日  多喜様へ玄六願に出夜御出 もっての外大病のよし御申に付宇都宮へ飛脚明朝七ッに岩蔵立たせ
16
日  同様なり
17
日  朝六ッ半頃御死去なり
21
日  朝五ッ出棺
23
日  初七日にて墓参致す」

 

享年65歳でした。記録には「葬谷中天王寺」とあります。

 

宇都宮生福寺(栃木県宇都宮市仲町2-17)

宇都宮生福寺には、菊池本家の墓所があります。ここは4代目から14代目までの当主と、その家族の大きな墓所になっていますが、これとは別の敷地に淡雅一家(菊池東家)の墓所があります。

 

 

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①淡雅知良、民子の墓 ②教中の墓 ③武文(教中の子)の墓 ④菊池八千代 ⑤勤皇の志士の高札

 

淡雅の妻民子の墓は、谷中天王寺にはなく、宇都宮生福寺に淡雅と共に埋葬されています。民子が亡くなった時に、天王寺から淡雅を分骨したものと考えられます。同じように淡雅の長男=菊池教中の墓も谷中天龍院に埋葬されていたものを、こちらに分骨しています。

宇都宮生福寺には、菊池家墓地のほか、暖簾分けして別家となった吉田丹兵衛家の墓所があります。丹兵衛の墓石には淡雅の文章を教中が墨書した墓誌が刻まれています。

 

淡雅翁頌徳碑(栃木県小山市粟宮1006付近)

大橋淡雅の生家は小山市粟宮にありました。国道4号線を間々田から神鳥谷に向かう途中に、大橋訥庵旧居跡の高札が見えます。そのはす向かいに粟宮上公民館があり、この横手に大橋一族の墓と「東海院淡雅温卿居士頌徳碑」があります。平成27月吉日と設立年月が刻んであるので、淡雅の生誕200年を機に、比較的最近になって大橋家の縁者によって作られたものです。

 

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東海院淡雅温卿居士頌徳碑 碑文 
大橋淡雅は天明八年粟宮の医師英斎の子に生まる。諱は知良字は温卿淡雅と号す。宇都 宮の商賈菊池家の養子となり文化十一年江戸に出で日本橋にて木綿呉服問屋を営み佐野屋長四郎と称す。家業に励み江戸屈指の豪商となるも勤倹己を持し義に篤く貧を救うに意を用い私財を投じて粟宮の助郷役を永代免除せしむ。天保の大飢饉に際しては餓民千戸を援く。又荒廃せし奥日光川俣温泉の復興に尽力す。幼にして学を好み長じては文人墨客と交り自らも保福秘訣富貴自在等を著す。小山市興法寺所蔵県指定文化財佛画七幅は祖先供養のため淡雅寄納せしものなり。嘉永六年病没す。享年六十六歳 その死を悼み会葬せしもの六千人を数う。 淡雅に一男二女あり 女婿大橋訥庵は江戸に思誠塾を開き義弟菊池教中と共に尊王攘夷に奔走し幕末勤王五傑の一人と讃えらる。淡雅生誕二百年に当りその後裔故大橋良矩 淡雅の徳を頌えんがため碑を建てんと発願せしも志なかばにて他界す。ここにその兄故英夫の長男知良良矩の遺志をつぎ英夫良矩の妹川越市藤田悦子関城町林光野寒川菅沼茂子の協力を得て之を建立す。」 

 

泉岳寺南窓翁碑(東京都港区高輪2-11-1)

高輪泉岳寺といえば播州赤穂藩主浅野家の菩提寺で、赤穂四十七志の墓があまりにも有名です。この赤穂浪士の討ち入り事件は当時様々な評価がありました。今でこそ仇討ちの美談として、映画やドラマで何度も放映されていますが、当時はこの事件の扱いについて、当初は厳罰に処すべきという幕府の意見が強くありました。考えてみれば、浅野内匠頭が江戸城中松の廊下で吉良上野介に恨みを持って斬りつけ、殺害に失敗して幕府の刑を受けたのですから、仇討ちで吉良を襲うというのは筋違いです。これは幕府の判断を不可とする政府への反逆といえなくもありません。

これを当時の儒学者が忠孝篤い美談の例として称賛したことで、世間にもあっぱれな所業として広まります。これを黙視できなかった幕府は赤穂浪士に対して、本来であれば斬首のところ、刑を減じ、武士としての体面を汚さぬよう切腹を命ずることになったのです。

南窓翁(柴山常晴れ)という講釈師が赤穂義士伝を講談にしたことで民衆にも広く知られるようになりました。この南窓翁を讃える石碑が泉岳寺の一角に建てられています。南窓翁の門人柴田南玉が文章を作り、淡雅が墨書しています。

 

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南窓翁碑
先生諱常晴柴山氏号南窓安房州之人 住於江戸以講軍記為業伝聞強識而雄
弁動衆声名藉甚者已四十余年矣尤好 講赤穂盟士之伝蓋為人臣之準則
欠有忠者必有孝先生常説此両議以示 諸人凛凛意気傍若無人自称海内之一人也

弘化三年丙午四月十五日以病終 于家高寿七十有三門人南玉柴田翼撰
嘉永元年歳次戊申四月建 大橋知良書

 

赤穂義士については、大橋訥庵の実父である清水赤城(儒者・兵学砲術師)が「赤穂義士人之鑑(涙襟集)」という書物で義士を讃え、また、訥庵の実子である大橋義が「赤穂義人纂書由来書」を記しています。

儒学に言う「忠孝」が、赤穂義士によって実践され、幕府政治への反逆であったにもかかわらず、世間に受け入れられたことは、この先幕末を迎える思想的な導線になったとも言えるでしょう。大橋訥庵、菊池教中が淡雅の没後に、尊王攘夷を唱えて坂下門事件を企図することになります。

 

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投稿日:2011年03月09日

佐原別家の消息 佐野屋司店(1)【さのや歴史講座 9】

前々から訪ねたいと思っていた千葉県佐原へ行ってきました。 
佐原は川越や栃木と同じように小江戸~江戸から明治の街並みをそのまま保存している歴史景観の街=蔵の街です。 東関道を成田の先まで、川崎からは2時間少々のドライブです。

 

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【小野川の両岸に江戸時代の街並み、この川は利根川に繋がっている】


佐原は利根川の水運を地の利として、東北、北関東と江戸を結ぶ舟運の要衝として江戸時代に大変栄えた街です。今でも土蔵造りの店や、運河沿いに並ぶ古い街並みが当時の様子を彷彿させます。 
佐野屋10代目治右衛門孝古の文化7年(1810年)10月、佐野屋本家は橋本文蔵をして下総佐原に支店を開舗させました。 当時佐原は商売にとって有力な土地になっていました。

10代目の孝古の経営になる佐野屋本家=佐治店は、この後大いに栄える佐野屋の大店三店舗を別家・分家として創出します。 
日本橋佐孝店(菊池孝兵衛、文化11年)、宇都宮佐丹店(吉田丹兵衛、文化10年)、佐原司店(橋本文蔵、文化7年)の3大店舗です。 
日本橋佐孝店は、前節でも触れたように木綿太物問屋として大手に並ぶほどの成長をし、佐野屋一統のリーダー的存在になります、そして現在の大塚佐野屋のルーツです。宇都宮の佐丹店は、その後江戸に進出、下谷車坂に出店して、明治期には東京でも12を争う質屋の大店に成長します。吉田丹兵衛の墓所は宇都宮寺町の生福寺に所在がつかめました。その墓誌は淡雅が文章を作成し、教中が墨書したものでした。 

橋本文蔵は宇都宮の南西部幕田の生まれで、16歳の時から佐野屋本家で孝古に仕え、関西に行商を命じられるなどして、佐野屋の支配人としての道を歩みます。17年間の勤務の後、33歳にして佐原に支店を開くよう命を受けます。 
文蔵は商売に励み、佐原出店の5年後に孝古が他界してからも商売は大いに栄えて、竜ケ崎、福島、下妻、土浦など支店網を8店舗まで広げました。 

後に、佐孝店を日本橋の大店にのし上げた淡雅菊池長四郎は文蔵の功績を讃えて墓表を記したということが記録に残っています。

その記録を頼りに、佐原に司店の足跡を捜しに向かったのでした。 

たまたまこの日は、佐原の山車の曳き回しがあり、狭い街並みを巧みに操縦される山車を見物することができました。この日はテスト運行のようで、山車は一台だけでしたが、夏や秋の大祭には20台以上の山車が曳き回されるというので壮観でしょう。

 


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【狭い街並みを行く山車、曲がり道では神輿のように担ぎ上げて回転する】


山車を見ながら小野川沿いに古江戸の街並みを歩いていた時です。街並みの中心部忠敬橋のすぐ先、伊能忠敬旧宅の隣に「司 佐野屋」の看板を見つけました。

司=佐野屋となると、これは橋本文蔵に関係あるに違いないとピンと来ました。早速店の奥にある居宅を訪ねてみました。 

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【佐野屋司店 間口は狭いが奥行きが相当あって、江戸期創建の土蔵が残っている】


予想はあまりにも見事に的中しました。橋本文蔵翁のご子孫が当時の土地や蔵そのものを受け継いでそこに住まっておられました。事情を話すと、突然の訪問にもかかわらず、お宅に上げていただき、親しくお話を伺うことができました。

 

早速見せていただいたのが、橋本文蔵を描いた掛け軸でした。これは天保8年(1837年)の作で、淡雅の賛と相澤石湖画の橋本文蔵坐図が描かれていました。橋本文蔵が数え年61歳の還暦祝いに、淡雅より贈られたものです。

相澤石湖は谷文晁の弟子で、高久靄崖と同門の高名な画家です。彩色も鮮やかに、良い保存状態で美術的にもすばらしい作品だと思います。

  

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【相澤石湖画 橋本文蔵像(佐原橋本家蔵)】

 

佐孝店の淡雅は、当時の著名な文人墨客との親交が深く、自らも筆墨や書画鑑定に巧みで、自然と美術サロンのようなものが出来上がっていました。渡邉崋山や高久靄崖、相澤石湖などもそのメンバーでした。この縁から肖像を依頼したものでしょう。肖像画を見ると上り藤に「大」文字(大久保藤)、現在の橋本家と同じ紋付羽織をまとって、腰には脇差を帯刀しています。おそらく村方役人などを勤めていたのではないでしょうか。

 

淡雅の記した賛は、文蔵が佐原に開店し業を盛んにした功績をたたえ、還暦を迎えたことを祝う内容になっています。文蔵は平生から狂歌の嗜みがあり、賛の末尾に2首の狂歌を掲げています。

 

 身上(しんしょうは)世界の物と思うべしおのれ一人の私(わたくし)にすな

 孫子(まごこ)には家業の道を一筋に曲がらぬように教え導け

 

成功者として後世に残す達観というべきでしょう。

掛け軸を見せていただいた後に、驚くべき品物が登場します。それについては次回に、、

 

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投稿日:2011年01月29日

日本橋佐野屋 発展の秘密(2) 【さのや歴史講座 8 】

お江戸日本橋繊維問屋

 

 徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸の街割り(都市計画)を決めた頃から、日本橋に大店を構えていたのが大伝馬町組と呼ばれる繊維問屋の株仲間(冥加金を幕府へ上納することで販売権や仕入れの独占を公認された同業組合のこと)でした。

 

京都から江戸に政治の中心が移ると伊勢や京都を本拠地としていた大商人も江戸に移ってきます。高度な加工技術を必要とする絹織物や木綿などの太物は、生産地が京都や伊勢、三河など関西にありましたので、これを江戸という最大の消費地に送り込むことによって多大な利益を産んでいました。

 

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(大伝馬町の大店 長谷川、大和屋、川喜多など大伝馬組の問屋が並んでいる)

 

江戸中期になると、後発ではあっても京都にあって豊富な資金を蓄えてきた呉服商が江戸に支店を置いて、関東で発達してきた絹織物や木綿織物を直接仕入れることにより問屋化して、大伝馬町の旧勢力と対立するようになります。京都や近江の商人を中心とする新興のグループは、白子廻船を介して関西と江戸を結んだことから、白子組と呼ばれる株仲間を結成しました。越後屋(三越の前身)、大丸屋、白木屋、大黒屋など、当時もっとも大きな繊維問屋がこの新興勢力に属していました。

 

宇都宮から江戸に進出した佐野屋は、その品質で頭角を現してきた地場産業である真岡晒木綿を一手に握ることで、日本橋において力を蓄えます。それには、これまで築いてきた佐野屋の分家・別家網が大いに機能を発揮することになります。本家の佐野屋治衛門店から、真岡に代吉を出店させ、人材を送り込みます。そして、真岡木綿の取り扱いにおいて、ほとんど独占支配するようになったのです。

 

天保の改革

 

日本橋の佐野屋が発展してゆく時代は、上方で栄えた元禄文化のバブルがはじけて、化政期(文化・文政)の江戸文化へと移って行った時期で、華やかな文化の裏で幕府財政が苦しくなって行きます。追い討ちをかけるように、全国的に凶作に見舞われ、打ちこわしや一揆が発生します。幕府財政の建て直しや諸国経済の安定を期して老中水野忠邦が改革に着手します。日本史の教科書に載っている江戸時代3大改革の一つ天保の改革です。

 

水野忠邦の経済改革の一つに、株仲間の解散という政策があります。独占的な株仲間を解散して自由経済の発展を目指した経済政策です。これによって、天保12年(1841)「直売り勝手次第」となって大伝馬町組や白子組の独占的な特権が廃止されます。真岡木綿の生産量の増大ともあいまって、この期に乗じて日本橋佐野屋は商売を広げて一気に大手と肩を並べるほどに成長します。

 

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(白子組の有力問屋 駿河町越後屋 現在も三越本店となっている)

 

結果として天保の改革は失敗し、水野忠邦は失脚してしまいます。そして、株仲間解散から10年後、嘉永4年(1851)に再び株仲間が再興されると、その実力によって日本橋佐野屋は白子組の元組加入が認められ問屋仲間に加わります。文化11年(1811)に江戸進出して40年目の成果でした。

 

白子組木綿問屋

柏屋孫左衛門

京都

本町一丁目

恵比寿屋三郎兵衛

京都

尾張町二丁目

白木屋彦太郎

京都

通一丁目

大黒屋三郎兵衛

京都

本石町四丁目

大黒屋吉右衛門

近江

通油町

伊豆蔵屋吉右衛門

京都

本町四丁目

舛屋九右衛門

近江

麹町五丁目

近江屋伝兵衛

近江

通一丁目

大丸屋庄右衛門

京都

通旅籠町

佐野屋長四郎

野州

元濱町

越後屋八郎兵衛

京都

駿河町

松居屋久衛門

近江

伊勢町

 

上は白子組のメンバーリストですが、京都や近江の商人で占められる中で、野州(下野国)出身の佐野屋はまさに異色と言えるでしょう。

 

日本橋佐野屋は、こういう時代背景のもとで成長を遂げました。これは一見大変な幸運に恵まれた結果にも見えます。しかし、その成長の理由は幸運だけではありません。後世に何度も復刻された「淡雅雑著」や、当時の商家の史料として現在も研究者によって研究評価されている「店教訓家格録」に見られるように、当時の商売の方法から、家政の維持、子孫の教化など広い視野に立った経営者としての見識や政策をしっかり持っていたことが、成長の秘密であったと確信できます。

 


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(古地図に見る日本橋佐野屋の位置)

 

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投稿日:2011年01月12日

一枚の写真 関東大震災  【さのや歴史講座 番外編3】

 

大正12年9月1日午前11時58分32秒、マグニチュード7.8の大地震が関東地方を襲いました。関東大震災、死者・行方不明者が14万人を越えたそうです。

 

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上の地図は大正時代に作成された地図と現在の地図を重ねて表示したものです。被服廠跡を背にして厩橋方面を撮影すると、ちょうど佐野屋が間に入る位置になります。当時のこの一角にはライオン石鹸の本社や、中島工場(歯車などを作る鉄工所)鈴木工場(金属印刷工場)があったはずですが、すべて倒壊あるいは焼失してしまっています。(現在はライオンの本社ビルが、かつての同じ場所に新築されています。)

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本所で佐野屋の六つ蔵と呼ばれたスケッチが残されています。2階~3階建ての蔵の形状、屋根の形、焼け野原に複数(2~3棟に見える)が並んで建っている様子など、佐野屋の蔵の残骸ではないかと推定できるのです。

 

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上の写真は明治34年9月15日に本所外手町の敷地内で撮影された佐野屋の主な人たち11人の集合写真です。当主の2代目永之助(後列右端)は撮影の5年後(震災前の明治39年)に亡くなっているので、震災の時には生きていませんでした、この他で震災後の消息が明らかなのは、震災の前年11月に大塚へ分家した久吉(後列右から3人目)・艶子(後列左から2人目)夫妻、震災後に久吉たちの捜索によって偶然救出された艶子の実母満壽子(後列左端)の3人だけです。永之助、くら子、満壽子、久吉、艶子ら5人の墓所は谷中天龍院にあります。しかし、永之助の長男正太郎をはじめ、残りの人々については、菊池家の墓地に埋葬されてはおらず、その所在が分かりません。

 

震災直後、逃げ惑う人々は抜刀した警官隊の指図によって、横綱町の被服廠跡地へ誘導・避難します。地図でもわかるように、外手町からは数丁のすぐ近くです。大変多くの避難民と、家から持ち出した布団やらの荷物でごった返した広大な被服廠跡地に火の粉が降りかかります。火の粉は密集した人々の衣服や布団などの荷物に燃え移り、あたり一帯が火の海に包まれてしまいます。大火災によって発生した旋風が人々や荷物を空に舞い上げ、再び地面に叩きつけます。東京で死亡者・不明者がおよそ10万人、そのうちの3万人から4万人がこの被服廠跡で亡くなったそうです。佐野屋の家族や従業員もこの被服廠跡に避難していたはずです。

 

現佐野屋の直接の親家にあたる本所外手町の店は倒壊焼失し、人的にも壊滅してしまいました。そして、さらにその親家である日本橋佐孝店も震災の火災で店が焼失し、立ち直れないほどの大損害に見舞われ、江戸文化年間から4代続いた江戸日本橋の佐野屋はついに閉店のやむなきに至ります。

 

初代の残した書籍『淡雅雑著』を復刻するにあたって書かれた佐孝店4代目菊池長四郎(晋二)の跋文には閉店のやむなきに至った慙愧の思いが綴られています。

 

 もし我が子孫が此の書を読んで、発憤興起し家道を再興するものあらば、余の面目始めて一洗するを得ん。是れ余の希う処なり復た何をか言わん。

 

久吉と艶子が大震災の前年にこの地大塚で佐野屋を開業して3代、2010年11月で88年を迎えました。遠くは江戸初期から400年余の歴史を受け継いで、あるいは大いに栄え、あるいは細々と消長しながら、関東大震災で灰燼に帰し、東京大空襲で焼け出され、奇跡的に生き残った佐野屋は、大塚の地でようやく復活したのです。

 

 

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一枚の写真は絶望を象徴しているように見えます、人間も住まいも品物も、すべてを焼き尽くして、希望のカケラもない瓦礫の世界。苦しんで死んで行った先人の無念の思いや、すべてを失った悲しみの声が聞こえてきます。現在の佐野屋、その見えない土台はこうした先人たちに支えられてあることを、時々は思い出して、決しておごらず、感謝の気持ちを持って毎日仕事に励んで行きたいと思っています。

最後の画像は、厩橋から見た東京スカイツリーです。関東大震災と東京大空襲で2度にわたって焼き尽くされ何万人という多くの人々が亡くなった絶望の時間とは対照的な明るい繁栄を象徴するような画像です。

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投稿日:2010年12月04日

日本橋佐野屋 発展の秘密(1)  【さのや歴史講座 7】

 

 15歳のとき、大橋家から菊池家へ養子に入った淡雅は医者になることを断念して、義父介介(かいすけ)の下で商売を学ぶことになります。当時の菊池家=佐野屋は古着の売買を主な業としていましたので、近郷近国の質屋などへ行商に出るようになります。旅中の淡雅は、常に書物を持参して、歩行しながら読書するほど、勉学に熱心だったそうです。

 

 また、江戸や東海道といった遠方へ出向く時は、駅馬を雇って旅することが多かったのですが、馬上でも書を読みながら、そのうち疲れて馬の上で居眠りをして馬丁に注意されることもしばしばだったようで、落馬して怪我でもしてはと、周りをはらはらさせたということです。介介の弟で、後に本家を継ぐことになる栄親は、これを聞いて、「いささかの費用を惜しんで怪我をするのは不孝であるから、駕籠を使うように」と命じたのですが、淡雅はこれから一家を興そうという身が駕籠などを使うのはもったいないことだとして、密かに馬に乗ることも多かったということです。

 

 父の介介は佐野屋10代目で、6代目から続く治右衛門の名を継いでいました。本来であれば、一人娘(民子)の養子に迎えた淡雅を11代目にして本家を継がせるのが筋であったのですが、文化11年(1814)正月、突然大きな決断をします。

 

 本家を介介の実弟である栄親に継がせるとともに、娘婿の淡雅には資金を与えて江戸に出店させるという構想でした。この年の5月に介介は他界してしまったため、この構想の成否を見届けることはできませんでしたが、婿の淡雅に対して並々ならぬ才能を見出し、次世代の佐野屋の新たな発展を淡雅に託して世を去ったのでした。これが見事に的中して、佐野屋は江戸において、大きな発展を遂げることになります。

 

 江戸日本橋では、以前から親交のあった伊勢商人松坂屋藤八の裏手に間借りをして佐野屋孝兵衛の名乗りを上げ、宇都宮本家の佐治(野屋衛門)に対する分家、佐孝(野屋兵衛)と呼ばれました。

 

 開業当初は、間口5間(9m)奥行2間半(4.5m)と言いますから、40.5平米=約12坪ほどの、今で言えば平均的な1LDKの平面積くらいの土地で、しかも借家でした。

開業スタッフは淡雅と妻の民子、雇い人として、常陸国吉川村の人平山幸助と、常陸国川嶋村の人小林好兵衛、このほか童子と僕隷の6人という江戸日本橋商人としては小所帯でした。そして、開業から3年後の文化14(1817)には、本拠地である日本橋元濱町に移転します。12坪程度の小さな店が、この時には間口2間半(4.5m)、奥行10(18m)81平米=24.5坪となり、更に晩年になると、間口10間(18m)、奥行22(39.6m)713平米=216坪の敷地に、家族・従僕100名余が生活し商売する大店になっていました。当時の町家(商家)は、表は蔵造りの店先になっていて、その奥の敷地内には、家族から従業員までが寝起きする生活の場でもあったのです。

 

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かつての運河を彷彿させる亀島川(中央区新川)

 

 

 
20101204hon7.jpg

 

日本道路原標のある日本橋、いなせな出初風景

 

 佐孝の本拠地の住所は、現在の中央区日本橋富沢町10-10付近であったろうと推定されます。明治31年の「日本商工営業録」に元濱町の地番と織物問屋の表が残されています。

 

地番

業種

屋号

氏名

2

木綿卸

 

野中鶴吉

3

太物卸

叶 屋

梶 周吉

4

綿ネル卸

 

塚本直次郎

5

綿ネル卸

加賀屋

山本彌兵衛

6

呉服太物卸

小野里商店

東京支社

6

呉服太物卸

奈良屋

青木堪兵衛

6

太物卸

 

石井忠次郎

7

呉服木綿卸

内田屋

内田庄兵衛

8

呉服卸

伊勢屋

鈴木啓八

8

呉服太物卸

佐野屋

菊池長四郎

9

呉服木綿卸

三河屋

外山彌助

10

呉服木綿卸

松坂屋

奥田藤八

11

太物帯地卸

佐野屋

内田金蔵

12

太物卸

中 屋

新井半兵衛

12

洋織物卸

廣 屋

下村政吉

12

太物卸

伊勢屋

鈴木定之助

12

呉服木綿卸

 

柴田傳次

明治31年「日本商工営業録」より 〇は納税額40,000円以上の大店 (10番地の松坂屋奥田藤八が、開業当時の家主であったのではないだろうか)

 

 上の表から、佐野屋の地番が元濱町8番地であったことが分かります。また、納税額4万円以上とありますから、現在のレートに換算しておよそ4,000万円以上になります。実際には売上税額にして20万円以上あったようですから、ざっと2億円の納税、これは、明治31年のことです。

この資料から、当時の古地図と現在の地図を比較したものが、以下の図になります。 

 

20101204hon6.jpg

 

 店の前は浜町川入堀という運河になっていました。運河には千鳥橋と汐見橋という名前も見えます。真岡産の晒木綿は栃木県の思川や巴波川(うずまがわ)から、利根川の水路を通り、大川=隅田川を経て、この運河を通って佐孝の店に運ばれてきます。

 富沢町から堀留町のあたりは、今でも繊維関係の商社が多く、綿商会館や、西川産業(もと近江の蚊帳商人)のビルが立ち並んでいます。佐孝のあったと推定される場所は現在、「日本橋インテリジェントフラッツ」という貸ビルが建っています。

  

20101204hon1.jpg 

 

 当時の運河は現在埋め立てられて、その上は建物や狭い路地、公園に姿を変えています。それでも良く観察すると、10m幅くらいで町並みを横切る不自然な細長い路地が続いているのが見てとれます。更に先を辿って行くと、久松警察署を過ぎたあたりから、細長く伸びる公園(浜町緑道)になっており、その先首都高速道路の浜町出入口に続いて隅田川へとつながっていたのが分かります。

 

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20101204hon5.jpg 

 

細長い奇妙な路地の一角、実はこれが運河の上に建つ家並み、土地台帳はどうなっている?(富沢町2丁目)

 

 ブラ・タモリ風の新日本紀行で、このあたりの町並みを歩けば、元は大名のプライベートな守り神であった水天宮や、宝くじの元祖椙森(すぎもり)稲荷、小伝馬町の獄舎跡には吉田松陰終焉の地、江戸城二の丸から移された本石町の時の鐘など、見どころはたくさんあります。そしてちょっと歩けば、東京のウォーターフロント、隅田川から眺める佃島あたりの高層マンション群、東京スカイツリー。見方を変えて歩けば、かつての江戸の町並みを思い描くこともできそうです。

  

20101204hon3.jpg

 

20101204hon2.jpg

 

文化11年(1814)にこの日本橋に開業し、江戸進出を成功させた佐野屋は、このあと4代続きます。そして、関東大震災によって壊滅的打撃を受け、4代目菊池長四郎(惺堂)が閉店を宣言する昭和29月まで、116年間にわたって栄えることになります。京都や近江、伊勢商人が支配する日本橋という特殊な環境の中で、栃木県から進出した佐野屋がどうしてこのような繁盛を遂げることができたのか。その秘密については、次回に譲ることにします。

 

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投稿日:2010年11月17日

淡雅の生い立ち 菊池家と大橋家  【さのや歴史講座 6】

淡雅の生家大橋家は、その祖を藤原秀郷(藤原北家、俵藤太の名で知られる平安中期の武将)に発し、代々小山氏の武将として名があったようです。小山氏が戦国末に北条氏とともに滅びると、各地を転々として、粟宮(栃木県小山市)に隠れて帰農しました。これが、淡雅8世の祖先です。

淡雅の父英齊は農家に生まれたものの、「性虚弱にて力作に便ならず」、下妻の沼尻氏のもとで商売を身に付けました。粟宮に帰ってしばらくは店を開いて商売を営んでいたようですが、中年になると眼疾にかかって廃業の止む無きに至ります。眼疾の治療のため良い医者を探していたところ、信州諏訪に竹内新八郎という医者が眼科の治療に妙術を使うということを伝え聞き治療を乞うたのです。治療すること三旬(約1か月)で効き目が現れ、視力が回復しました。英斎はこれにたいそう感服して、竹内氏に滞在すること数カ月、ついに医者になることを志して粟宮に帰って眼科を開業します。祖先に医業を学んだ人があったようで、家に伝わる医書や薬方などがあったことも医師開業の助けとなったようです。

 
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安政年間に刊行された『淡雅雑著』は息子の菊池教中と娘婿大橋訥庵の共著

 

英斎の住居は大通りからずいぶん奥まった場所にあったようで、大通りの脇に小さな店を作って薬を置いていました。こういう環境で育った英斎の二男淡雅ですが、英斎は淡雅を菊地家に預けて将来は菊地家の商売を継がせようと思い、淡雅15歳になると、菊地の養子に出すことになりました。菊地の10代目当主で佐野屋を経営していた介介(かいすけ)は、ある日淡雅を呼んで将来の希望について尋ねてみました。

 

淡雅は、「父の医業を継いで名医となって家を興し、父母を顕して、衆人の病苦を救いたい。」と答えるのでした。

 

英斎から淡雅の将来を託されていた介介は、淡雅を諭して言いました。
「お前の志は大いに高いというべきであるが、医道には名医と言われるほどの人物がそれほど多いということはない。これは、尋常の資質、尋常の困苦では成し遂げることが難しいためである。それが故に、お前の両親はお前が医者になることを望まないのだ。お前の父母は、私のもとで商売を学んで商人になることを希望している。」

すると淡雅は、「父母の希望がそうであっても、商人というものは利益ばかりを追求して、義を顧みることがない。人から品物を買う時は、その品物をけなしてでも安く買うことを功として、今度は人に品物を売ろうとする時には、理由もなく媚を売って高く売ることが功だと思っている。これを見ると、その行動も精神もきわめて卑しいものではないだろうか。医者は、衆人の病苦を治して命を保全し、いかなる精薬良剤をも惜しまずに投薬する。これに対する謝礼や薬代が多いとか少ないとかは問わない。これは金銀を利とするのではなく、病気を治すことを利とするのであって、その高い理想を求めたい。」と答えます。

なかなか聴き入れようとしない淡雅に対して、「お前の言っていることは、至極当然のようではある、しかしただ一面を知るのみで、その他の面を知らない言葉である。医業と商売との間に上下の分別があるように思われているが、それはその人の心志によるものである。たとえ尊いとされる医業に就いていても、その志が貧しく見識が狭ければ何ら匹夫や野人と違いはない。卑しいとされる商人であっても、その志さえ清廉潔白であれば、どこに恥ずべきことがあろう。人の品物を安く買い叩かないのも、自分の品物を法外に高く売らないのも、それはやり方というものがあるのであって、その術は今云うことではない。医業で家を興し、父母を安養するまでになるのは大変難しい、商売によって家を興し、父母を安楽にさせることは容易とも言える。だから、自分の言うことを聴き入れなさい。」

かく諄々と諭された淡雅は、もともとが孝心の気持ちの強い子でしたので、強いて医者になることが父母の意に逆することだと悟りました。それからは、商売の道に精究して、ついに大業を成し遂げるようになるのです。
  

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葭田蔡泉筆による肖像が挿入されている。

 

(出典 『淡雅雑著』より「淡雅行實」(菊地教中・大橋訥庵編 安政6年刊) 『大橋訥庵伝』寺田剛著)

 

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投稿日:2010年10月27日

さのや大塚店初代 菊池久吉翁の謡曲 【さのや歴史講座 番外編】

江戸日本橋に出店した佐野屋は、日本橋で4代116年間営業を続けたのち、 関東大震災の痛手が直接のきっかけとなって、昭和2年9月に閉店してしまいます。 一方、日本橋佐野屋三代目長四郎経政のときに分家し、本所石原町に出店した佐野屋(永之助)も 関東大震災で壊滅してしまいます。

本所石原町で生まれ育った菊池艶子は、佐野屋の番頭であった岡部久吉を婿に迎えて、しばらく 本所石原町に夫婦子供とも同居していましたが、おりしも関東大震災の前年に、分家して大塚に 出店します。これが、現在の山貴佐野屋になります。日本橋、本所とも店が焼け落ちてしまいま したが、大塚店は幸い生き残って現在に至っています。 久吉翁は謡曲が得意で、同業の質屋仲間を集めて、謡曲を教えていたそうです。 久吉翁の肉声による謡曲がSP盤レコードとして残されています。謡曲というと、若い方にはあまり 馴染みがないと思いますが、約80年前に録音されたものです。当時の画像とともにご覧いただければ と思います。

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投稿日:2010年10月23日

菊池淡雅の江戸進出 【さのや歴史講座 4】

前回、登場人物の紹介をしましたが、その一番目、菊池淡雅(以下淡雅と記します)についてしばらく語って行くことになります。

佐野屋が栃木県宇都宮から当時の江戸、日本橋へ進出したのが、この淡雅の時になります。

淡雅は大橋家からの婿養子でした。生家の家業は医者であったので、幼い頃より医者になりたいという希望をもって成長してきましたが、宇都宮の商人である菊池孝古へ養子に行くことを命じられます。医者を志す淡雅にとってたいへん不本意な父の命でしたが、父や養子先の孝古に説得されて、養子になって商売を継ぐ決心をするようになります。

文化11年(1814)淡雅26歳のとき。養父孝古から開業資金を授かって、江戸に進出出店すると、もともと勉強熱心であった淡雅は、商売についても心を注ぎ、時の流れに乗ったことも追い風となって、大いに繁盛するようになります。

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栃木県小山市の粟宮というところ、国道4号線の粟宮交差点近くに、大橋訥庵旧居跡の看板が見えます。ここから更に北へ200mほど行ったところに粟宮上公民館があります。この敷地の横に大橋家の墓所群があって、これを見守るように「東海院淡雅温卿居士頌徳碑」が建立されています。

 

以下、碑文です。
「大橋淡雅は天明八年粟宮の医師英斎の子に生まる。諱(いみな)は知良(ともよし)字(あざな)は温卿淡雅(おんけいたんが)と号す。宇都宮の商賈菊池家の養子となり文化十一年江戸に出で日本橋にて木綿呉服問屋を営み佐野屋長四郎と称す。家業に励み江戸屈指の豪商となるも勤倹己を持し義に篤く貧を救うに意を用い私財を投じて粟宮の助郷役を永代免除せしむ。天保の大飢饉に際しては餓民千戸を援く。又荒廃せし奥日光川俣温泉の復興に尽力す。幼にして学を好み長じては文人墨客と交り自らも保福秘訣富貴自在等を著す。小山市興法寺所蔵県指定文化財佛画七幅は祖先供養のため淡雅寄納せしものなり。嘉永六年病没す。享年六十六歳 その死を悼み会葬せしもの六千人を数う。
淡雅に一男二女あり 女婿大橋訥庵は江戸に思誠塾を開き義弟菊池教中と共に尊王攘夷に奔走し幕末勤王五傑の一人と讃えらる。淡雅生誕二百年に当りその後裔故大橋良矩淡雅の徳を頌えんがため碑を建てんと発願せしも志なかばにて他界す。ここにその兄故英夫の長男知良良矩の遺志をつぎ英夫良矩の妹川越市藤田悦子関城町林光野寒川菅沼茂子の協力を得て之を建立す。
平成二年七月吉日」 

 
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平成2年7月の建立とありますから、今から20年前に大橋家の子孫によって建てられたことになります。菊池家へ養子に行ったとはいえ、その後も大橋の名を用い続け、財と名を成した後も、故郷粟宮のために、助郷役の免除を実現し、飢饉や災害のあるたびに多くの援助を惜しまなかった淡雅へ寄せる思いは大橋家の子孫の人々にも強かったのだと思います。

余談になりますが、粟宮交差点角には、「西堀酒造」のアンテナショップがあります。ここでは、平成21年に金賞を受賞した銘酒、「門外不出」などの銘酒を味わうことができます。また、登録有形文化財に指定された仕込蔵、瓶詰場、煙突、長屋門などの見学もできるそうです。 

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これから先

①淡雅の生い立ち 大橋家と菊池家
②日本橋佐野屋 発展の秘密
③淡雅のサロン~文人墨客との交流
④奥鬼怒温泉日光沢の開発

へと物語を進めて行きます。

 

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投稿日:2010年09月22日

登場人物の紹介 【さのや歴史講座 3】

佐野屋=菊池家が文献に出てくるようになるのは、江戸時代も中期を大分過ぎた頃からになります。それ以前のことは、おそらく口承で代々伝えられてきたものでしょう。
4代目孝昌の承応年間(1650年頃)に振興した菊池家は、7代目治右衛門のとき(1700年代半ば)に、大阪から古着を仕入れて商いをするようになって、「本家中興」と言えるくらいに発展しました。近隣の質屋に止まらず関西方面まで足を伸ばして古着を買い集めます。今と違って、当時の庶民の衣類は大体が中古の古着でまかなっていました。上級武家や公家は絹織物、下級武士や庶民は麻や綿の衣服と、階級によって許された衣服が違っていました。そして、当時の主な衣類の生産地は京・大阪であり、そこで消費された衣類は古着として関西から関東へと流れて行きます。今と違って大量物流手段がなく、足か馬で荷駄を運んだので、何十日も掛けて大変な労力でしたが、それだけに大きな利益を生み出すことができたのでしょう。

10代目孝古の時代(安永5年、1776年)から、菊池家の歴史が文献に残されるようになりました。それは、佐野屋が江戸へ進出し飛躍的に発展して、江戸の商人の中でも豪商とまで言われるようになったためです。これから先は、江戸で一大豪商になった佐野屋の物語になります。
物語を始める前に、これから出てくる人物について簡単な紹介をしておきましょう

 

菊池淡雅
寛政元年(1788)~嘉永6年(1853)
享年65歳
栃木県小山の医師、大橋英斎の子。菊池家創生の家主にあやかり長四郎を名乗る。また商売上は佐野屋孝兵衛と称す。個人的には実家の大橋姓を生涯名乗り大橋知良と称した
幼少のころ菊池孝古の養子となり、商売を孝古に学ぶ。孝古の長女民子と結婚し、資金を孝古より預かって江戸へ出店する。真岡木綿を一手に商いすることにより、白木屋、大丸、越後屋(三越)などと並ぶ白子組太物商に成長する。
商売の傍ら儒家や文人墨客との交流も多く、これらのつながりが商売とは別に後裔に大きな影響を及ぼすことになる。
65歳で病没。東京谷中の天王寺墓苑に眠る。

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菊池淡雅像 椿椿山画「大橋淡雅夫妻像」より

 

菊池民子

寛政6年(1794)~元治元年(1864)

享年70歳
菊池孝古の長女として、栃木県宇都宮に生まれる。大橋家より知良を婿に迎えると20歳にして江戸へ分家移転となり、巻子、教中を産む。
歌学を好み、大国隆正、吉田敏成に国学・和歌を学ぶ。安政5年には歌集『倭文舎集(しずのやしゅう)』を出版する。この他紀行文『江の嶋の記』『鹿嶋詣の記』などを著す。娘巻子へ大きな影響を与える。
教中・訥庵が虜囚となるや、出牢嘆願書を領主に出したり、食物などを差し入れしたり、わが子を救わんと精力的に活動する。

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菊池民子像 椿椿山画「大橋淡雅夫妻像」より

 

 

菊池巻子

文政7年(1824)~明治14年(1881)
享年57歳
淡雅と民子の間に生まれる。教中の姉。幼時より母民子の薫陶を良く受けて、一緒に歌会などに参加する。
18歳の時、著名な兵学者であった清水赤城の子、正順に嫁ぐ。正順は儒学者として佐藤一斉の塾ですでに頭角を顕していたが、義父淡雅の実家である大橋家の名跡を継ぐと、淡雅の援助を得て、日本橋橘町に私塾「思誠塾」を開き大橋訥庵と称した。
夫の訥庵が次第に尊王攘夷の過激な運動に傾倒してゆくと、巻子は好くこれを助け、夫が幕吏に捕縛されて家宅捜索を受けたときも、機転良く証拠書類を隠匿する。(山本周五郎『髪飾り』に逸話が掲載されている)
文久2年に夫(訥庵)と弟(教中)が出獄直後に相次いで亡くなると、その思いを『夢路の日記』という歌日記に綴った。明治に入ると尊王の女流歌人として多くの人に知られるようになる。夫と弟を亡くした巻子は、思誠塾を継いだ養子大橋陶庵と晩年を静かに暮らし、明治14年、58歳で生涯を閉じた。

 

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柳水筆「吾妻絵姿烈女覚 大橋訥庵妻巻子」より

 

 

菊池教中

文政11年(1828)~文久2年(1862)
享年35歳
淡雅と民子との間に生まれる。父淡雅が一代にして大商人となり、その後事を託される。嘉永6年5月に父が亡くなると、その翌月には黒船渡来、翌安政2年には安政大地震、江戸大火などで30,370両もの直接損害を受け、世情不安と相まって、江戸から資金を引き上げる決心を固める。新しい事業として、栃木県鬼怒川流域の新田開発を手がける一方、義兄大橋訥庵や常野(水戸、宇都宮)の尊王攘夷派と結び、運動に加担するようになり、これらの資金的背景として重要な位置を占める。越後などから移植した耕作農民を兵士として調練するなど、尊攘運動の実践に向けて行動するようになる。
そして、文久元年の皇妹和宮降嫁を阻止せんがため、いろいろな謀議をこらしたが、いずれも実行に至らなかった。文久2年1月、大橋訥庵が突如幕府に囚われると、これに連座して教中も投獄されてしまう。この1月15日には、かねて企図してあった坂下門での安藤閣老襲撃事件が仲間の手により決行され、幕府の追及の手は厳しさを極める。幕府内の政権交代や、京での薩摩藩による朝廷工作などによって、文久2年7月、ようやく小伝馬町牢獄から出獄したが、直後突然の病気に倒れ8月8日35歳にして悶死。兄大橋訥庵もその前月に出獄後、すぐに病没している。

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葭田蔡泉筆 「菊池澹如肖像」

 

江戸後期から幕末にかけて、佐野屋にとっても大きな変動の時期を迎え、やがて明治へと商売や人脈が受け継がれて行きます。大河ドラマでは、福山「龍馬」が大ヒットしていますが、龍馬より8歳年上にして5年早く世を去った同時代の教中についての物語が、この【さのや歴史講座】のメインテーマとなります。淡雅、民子、巻子との4人家族の一人ひとりの足跡を辿りながら、話を進めて行くことになります。

 

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投稿日:2010年08月28日

足利厄除大師 ほほえみ美術館 【さのや歴史講座 番外編】

9月19日~26日、栃木県足利市にある足利厄除け大師(龍泉寺)では、ほほえみ美術館の落成を記念して「落成記念展」が開催されます。毎年5月のゴールデンウィークに「ほほえみ美術展」として開催されている催しです。
 龍泉寺さん所蔵の美術品の中に、椿椿山筆の「大橋民子像」(栃木県指定文化財)があります。大橋民子は、江戸に出店した佐野屋=菊池孝兵衛(大橋知良)の妻で、菊池家の長女に生まれ、大橋家から婿養子を迎えたものです。
 江戸で成功した孝兵衛は、商売のかたわら文人墨客との交流を深め、自らサロンのようなものを開くようになります。「書画家にては、大窪天民、立原杏所、巻菱湖、小山霞外、渡邊崋山、高久靄厓、椿椿山、大竹蒋塘、安西雲烟、相澤石湖、中澤雪城、山内香雪、など、格別に親交の人々なり。」(淡雅雑著下巻「淡雅行實」より)
 渡辺崋山が天保年間に「蛮社の獄」で佐久間象山などと共に捕らえられたとき、菊池孝兵衛は椿椿山・高久靄厓らに呼びかけて助命嘆願運動を行います。また、才能があるのに貧窮に苦しんでいた高久靄厓に惜しみなく援助を与えて、谷文晁の門下生の中でももっとも力量を発揮するようになります。こうした交流の一方で、自らも書画にいそしみ、作品を多く残しています。(その大半は、関東大震災、第2次大戦で消失してしまったということです。)
 この落成記念展では、この「大橋民子像」のほか、龍泉寺所蔵なる菊池教中(民子長男)の書幅も展示されるかもしれません。また、伊藤若冲、円山応挙、小杉放庵、竹久夢二など日本を代表する日本画家の作品が展示されます。
 龍泉寺はJR宇都宮線または東北新幹線の小山駅からJR両毛線に乗り換えて足利駅、東武伊勢崎線足利市駅からタクシーにて5分~10分です。近辺には足利学校や鑁阿寺など、足利氏にゆかりの歴史史跡があります。厄除けのご利益も期待して、ちょっとした散策にいかがですか。

 

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投稿日:2010年08月21日

さのや 名前の由来 【さのや歴史講座 2】

さのやのルーツが栃木県佐野市にあることは、祖先の系図や文献に残っています。では、具体的に佐野のどの辺で、どんな商売をしていたのでしょうか。残念ながらその当時の系図や記録は明和年間の大火(1772年)により、菩提寺や家屋の焼失で失われてしまいました。現在残されているのは、4代目承応4年(1655年)からの記録になります。

後世の人々の口伝から、当時は塩=SALTを商いしていたらしいということが言われています。菊池教中(1828~1862)の書いた『菊池家中興ノ系図』に「元祖は何の頃宇都宮に移り住みにしや、元は佐野より出たる人のよしなり、」と記されています。江戸の初期には、本拠地が栃木県宇都宮に移動していたことが分かります。

宇都宮では古着の売買を業としていましたが、7代目の菊池治右衛門(1690~1748)が、大阪より古着を仕入れて家業が盛んになりました。時しも元禄の賑やかな時代です。この頃から、佐野屋は細胞分裂を始めます。暖簾分けによって、分家や別家を創設して広がって行くのです。18世紀末ころまでに分家・別家は10店舗に増えています。これらの分家・別家が更に孫分家を産み出し、支店網が栃木は元より、茨城、群馬、千葉、江戸、福島と広がりを見せました。

 
その系統は主に4つに分かれます。宇都宮本家の佐治店(佐野屋治衛門)、江戸日本橋の佐孝店(佐野屋孝兵衛)、千葉佐原の司店(橋本文蔵)、江戸下谷の佐丹店(吉田丹兵衛)です。
ここで、現在の正式社名である「山貴佐野屋」の話になります。佐野屋=屋号の由来はすでに明らかになりましたが、「山貴」って何だ?ってことになります。一族の姓が「山貴」であれば簡単ですが、実は江戸時代から受け継がれた家印=商標=トレードマークを漢字で当てたものなのです。「∧」(ヤマ)の下にカタカナの「キ」を書いて「ヤマキ」です。ヤマキと言えば鰹節(花カツオ)のヤマキさんが良く知られていますね。これは大正6年創業愛媛県の会社です。社長さんが城戸さんでもともと城戸商店だったのが、商標をそのまま社名にしてヤマキとなったものです。佐野屋の「キ」は菊池の頭文字=「キ」なんです。昔は店先の暖簾(のれん)には必ず「∧キ」の商標が染め抜かれて掛かっていました。このマークは日本橋佐孝店の印です。このマークはグループ店舗によって形が少し変わって来ます。佐丹店は∧の上が突き抜けてカギ型に折れています。佐治店は∧の上が少し突き抜けた形です。
ということで、店のシンボルマークである「∧キ」が、「㈱山貴佐野屋」の商号として残っているのです。
 
関東大震災で焼ける前の本所石原町にあった佐野屋、3階建の蔵が6棟並んでいる。左下、入り口にヤマキの暖簾が見える。

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投稿日:2010年08月04日

ハカマイラー

NHK大河ドラマ「竜馬伝」のヒットで、竜馬関係者の墓へお参りする人が増えているといいます。それも若い女性が多い!そういえば最近流行りの新語「レキジョ」というのもありましたね。
そろそろ月遅れお盆でもありますので、ちょっと気になりました。
そういうワタクシも「ハカマイラー」「セキヒスト」(これは私のオリジナルで、石碑IST)であります。
さのやの社史編纂室長(自称)を誇るワタクシのライフワークですが、徳川家康が亡くなって39年、承応4年(1655年)4月にさのやの歴史が紐解かれます。「承応4年3月13日、宇都宮菊地氏創建、此御方より本家興り候」と、さのや本家の「店教訓家格録」(菊池淡雅編 1800年頃)に書いてあります。3代目菊池長四郎孝昌がその人です。これ以前の記録は明暦の大火で消失してしまいましたが、「これ以前、先祖何代ということを知らず」とありますから、おそらくは室町時代くらいに遡るのでしょう。ちなみに質屋発祥は約700年前という通説があります。
宇都宮から江戸へ出店したのが文化11年(1811年)のことになります。明暦大火、安政大地震、安政大火、明治維新、関東大震災、第2次世界大戦などで、その都度大打撃を受けながら、困難を乗り越えて、さのやの歴史は平成の今日まで連綿と続いて来ました。
この足跡を辿るのがワタクシの使命。江戸時代は質屋や木綿問屋を営む傍らで、美術品の蒐集や文人墨客との交流など文化的活動を行い、また自らも書画を能くしたようです。それで、あちこちに祖先の墨蹟による石碑が建っています。今日は西へ、明日は東とこの足跡を尋ねて走り回っています。
はい、今日は「さのや歴史講座 第1回」ということで、次回をお楽しみに。さのやの社員諸君もよ~く勉強してください。
次回まで待てないという方は、こちらでご覧ください。

http://home.f07.itscom.net/rainbow/index.htm

画像は江戸進出初代 佐野屋孝兵衛=淡雅菊池長四郎(寛政元年(1788)~嘉永6年(1853)

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